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探偵の知識

第九章 依頼者A子の告白

2025年11月19日

探偵はここにいる
森 秀治

取材がほぼ終わり、原稿を書く始める段になると、依頼者の話を聞きたいという思いが強くなってきた。依頼者が探偵のことをどう見ているのか、依頼する前と後では見方が変わったのか、調査を依頼して後悔はないかなど、安くはない調査費用を支払った依頼者に話を聞いてみたくなったのである。
今回の取材で付き合いのできた探偵社に、依頼者の紹介を頼んでみた。探偵に依頼する案件を赤の他人に話してもいいという人は少ないだろう。できれば秘密にしておきたいというのが依頼者の本音に違いない。そのためか、どの探偵社からも色よい返事はもらえなかった。
相談した時期も悪かった。二〇二〇年一月だったので、その後に起きた新型コロナウイルスの影響もあり、気軽に取材することが難しくなったのだ。取材というのは、生きる上では不要不急なものである。時期が時期だけに、「いいですよ」といってくれる依頼者は簡単には現れなかった。こちらも駄目元の依頼である。無理な頼みは仕方がないくらいの気持ちでいた。
二〇二〇年晩夏、新型コロナウイルスの感染拡大が少し落ち着き、日常が戻りつつあった頃、編集者Kから嬉しい連絡があった。「取材を受けてくれる依頼者が見つかった」と。本人の取材は実現しなかったのだが、何度か会って親しくなった凄腕の探偵Nが、取材を受けてくれる依頼者を見つけてくれたのだ。依頼者を通じてではあるが、探偵の仕事ぶりにについて聞けるのも嬉しい展開である。

数カ月ぶりに京都から上京。念願の依頼者(四〇代の女性)に話を聞くことができた(プライバシー保護のため、依頼者の女性をA子とする)。
取材場所は、A子の自宅最寄り駅だった。どこの駅かは記載できないが、それなりに大きな駅である。A子とは駅の改札口で午後一時の待ち合わせだったが、私と編集者Kは待ち合わせよりも一時間早くに合流した。喫茶店で取材の打ち合わせをしても、まだ午後一時三〇分。ダラダラとマスク越しに雑談をして過ごす。待ち合わせの五分前、改札口に移動すると、緊張が高まってきた。
A子について、事前にわかっていたのは、夫の浮気調査を探偵に依頼し、彼女にとっては条件よく離婚できたこと、名前以外で知らされていたのは、それだけだった。事前情報が少なければ少ないほど、想像が膨らむ。夫の浮気に気付いたのはなぜだったのか。気付いたときはどう思ったのか。夫婦に対してどういう思いだったのか。浮気相手に対して何を思ったのか。決定的な証拠を見せられたときは、どうだったのか。これから生々しい話を聞くのかと思うと、期待なのか不安なのか、はたまた好奇心なのか、自分でもよくわからない奇妙な緊張感に襲われるのだった。
待ち合わせ場所に現れたのは、暖色の服装(ゆるコーデとも呼ばれているそうだ)に身を包んだ、笑顔が素敵な女性だった。マスクをしているので口元は見えないが、目の表情から、こちらの緊張をほぐしてくれる優しさが伝わってきた。取材に適したレストランの個室に移動して、改めて挨拶をしてから取材を始めた。

A子は四〇代前半の女性で、外資系企業に勤務している。取材日は木曜日の昼間だったが、彼女はこの取材のために休みを取ってくれた。A子とS男(元夫)が出会ったのも、この外資系企業である。名前をイニシャルにするにとわかりにくいため、以下、主な登場人物を先に紹介しておく。
A子……依頼者であり、本稿の主人公
S男……A子の元夫で、第一対象者
B子……依頼者の学生時代からの親友
U子……S男の浮気相手、第二対象者
N……探偵
会社の同僚だったA子とS男。A子のほうが四歳年上の先輩だった。「元夫は仕事もできて決断も早く、何でもパパッとやってくれました。私が結構のんびりしているので、年下でも頼もしいなあって思いました」
S男は中肉中背で、顔には神経質な性格が現れていた。才能豊かなシステムエンジニア(SE)で真面目だったが、不器用な性格で人付き合いが得意ではなかった。自信があってプライドも高く、自分の考えに固執するところもあり、上司と揉めることもしばしばあったそうだ。A子とS男は部署が違ったが、地元が同じ埼玉県で、同じ高校出身だったこともあり、意気投合。四歳違うため、学校での時期は被らないが、共通の話題が多く、話も盛り上がった。
仕事の都合で都内の会社に通勤していた。
「帰るときに何回か車に乗せてもらうようになったんです。そのうち付き合いが始まりました」
付き合いが始まり、しばらくした頃。S男の部屋にいたときのことである。S男の元彼女から電話がかかってきたことがある。そのときのS男の態度は、相手を完全にシャットアウトしたものだった。A子のことを気にしてくれてのことだろうが、A子が引いてしまうほど、極端な態度だった――。A子の記憶に強く残っている出来事である。
二〇〇八年、A子が三九歳、S男が三五歳のときに二人は結婚した。
結婚後、しばらくは穏やかな生活が続いた。S男は積極的に家事も分担してくれた。「先に帰ったほうが夕飯を作る」というルールがあり、S男は料理も得意で、洗濯も掃除もまめにしてくれる。ただ、S男は口数が少なく、話しているのはA子ばかりだった。
結婚してしばらくすると、S男は会社を辞めた。ヒステリックな面もあるS男に気を遣うことはあったが、A子は概ね不満のない結婚生活を送っていた。
はかなく、人を一切拒絶するため、直属の上司との溝が深まってしまったのだ。「会社の上司とはかなりやり合って辞めていると思います」と、A子は当時を振り返っていた。

会社を辞めたS男はフリーランスになった。最初の数年は収入が安定しない時期もあったが、SEとして優秀だったので生活に困窮することはなかった。フリーランスとして働き出した頃、二人はマンションの購入を検討し始める。フリーランスでは、三年分の確定申告がないと銀行から住宅ローンの申請が簡単には下りない。当初、二人の地元である。郷市のマンションを探していたが、フリーランスに成り立てのS男にとってはハードルが高かった。
数年後(二〇一四年に)、二人が購入したのは、都心の駅から徒歩五分の低層マンションだった。価格は約七〇〇〇万円。頭金をかなり貯めていたため、五〇〇〇万円の住宅ローンを組むことになった。私もフリーランスとして住宅ローンを組んだが、一六〇〇万円を借りるだけでも大変だった。どこの銀行にも相手にされず、地元の小さな信用金庫に頭を下げて、ようやくローンを組めた経験がある。つまり、五〇〇〇万円も借りられるということは、フリーランスとして収入が多かった(それだけ優秀だった)という証左である。
実は、マンションの購入を巡って、大きな夫婦喧嘩をした。マンション購入の手続きや不動産会社とのやり取り、書類作成といった面倒な作業はすべてS男が行った。フリーランスのS男のほうが時間に融通が利いたためでもあったが、A子はS男に任せておけば間違いないと信頼していたためでもあった。
「すべて任せっきりでした。いいようにしていたのがいけなかったんですけど、一気に不満が爆発したんだと思います。本人は日本の小さなことの積み重ねみたいなことをいっていましたけど……」
人から頼られるのが嬉しいが、それが義務だと話は別だ。住民票を取りに行ったり、ローンの申請で同じ住所と名前を何度も書いていたりしているうちに、S男は「なんで俺ばっかり、こんなことしないといけないんだ」と思ったのではないだろうか。日々の家事と同じようなものである。
A子が「不満部分は事実」という約束をしていた喧、S男はその後も不満をため込んでいたようである。自分が完璧に物事をこなしている(と本人は思っている)と、相手の不完全さが気になってしまうもの。自分のやり方を強要する性格であれば、なおさらである。後々、離婚の理由に「家事をしない」といった不満を漏らすのだが、A子にとっては「ごく普通に家事をしている」ことでも、S男には「していない」と感じていたのだろう。相手に完璧を求めても、それは自分にとっての完璧であって、永遠に満足することはない。人間はまだ、自分がしていることを過大評価する傾向がある。実際は六対四に分担していても、「なんで自分ばかりが」と思ってしまう。しかも双方そう思っていると質が悪い。
それまで好き、離婚という言葉が飛び出るほどの大喧粗を乗り越えた二人は、多少のわだかまりを残しつつも、普段の生活に戻っていった。会話は減っていたが、リビングでそれぞれが好きなことをして過ごす緩やかな時間が流れていた。
ところが、二〇一六年七月、その生活が一変する。
S男は、夫婦の会話を拒否するようになったのだ。A子が話しかけても返事がなくなった。「おはよう」「ただいま」といった挨拶すらしないのである。主従関係といって外出し、月に一度は無断外泊をするようになった。そして、一緒の部屋で寝ることもなくなった。
その前年にあった。二〇一五年、S男はあるIT企業に就職した。SEとしての腕を買われての就職だった。S男は五月にシンガポールに出張している。男性二人、女性二人での海外出張だった。後でわかったことだが、なぜかもう一人の男性だけが別のホテルに泊まり、S男と女性社員は同じホテルだった。もしかしたら、何か事情があったのかもしれないが、そのときから怪しくなったのではないか、とA子は疑っていた。
S男はフリーランス時代から、あらゆる領収書をデスクマットの下に入れる習慣があった。ある程度たまってから整理していたのだろう。確定申告用にとエクセルなどのソフトにまとめて入力していたのかもしれない。その習慣は、企業に勤め始めても変わっていなかった。
夫の行動を怪しんだA子は、領収書を確認することにした。領収書の中にはレシートも含まれている。飲食店もレシートだと、何人で食事をしたか、男性が何名で女性が何名かまで記載されているものもある。出てきたレシートには男性一名、女性一名と記されていた。中にはカラオケ店のレシートもあり、こちらも「男1・女1」とある。完璧主義者のS男としては、脇が甘いとしかいいようがない。
これだけでも十分に浮気の証拠だと思うが、決定的な証拠ではない。同僚と食事をすることもあろう。いつも同じ女性というわけではないかもしれない。終電を逃してしまい、朝まで時間を潰すためにカラオケ店に行った可能性もある。言い訳しようと思えばいくらでもできる。

それでもA子は浮気を確信していた。自分のことを一切シャットアウトする姿は、以前の元彼女に対する態度と同じだったからである。
一緒に暮らしているからの完全無視ほど、身にこたえるものはないだろう。挨拶も含め、すべての会話が拒否される。洗濯かごに入れられた衣類から自分のものだけ洗濯し、A子のものは床に放ってある。すべての食事を外で済ませるようにもなった。A子は当時のことを日記に書き留めていた。そこには「こんなことができるなんて、人として信じられない。本当にひどい!」と書いていたそうだ。
A子は一人で扱いてもらえず、人格否定されていると感じていた。次第に、A子は食事が喉を通らなくなった。
「食べられなかったですね。だから冷蔵庫はいつも空っぽでした」
当時のA子は「会社には行かなきゃ」という気力だけで生きていた。朝と晩は何も食べられないが、昼だけは同僚と外で食べていた。何も食べないと、同僚から詮索されるのが嫌だったからである。
それもカロリーはまったく足りていなかったのだろう。夜一〇時には眠くなって布団に潜り込む日が続く。身体が省エネを求めていたのだ。A子は二カ月で九キロも痩せた。
二〇一六年一〇月、A子は友人B子に相談した。中学校時代の同級生でS男と付き合い始める前、B子にS男のことをよろしく思っておらず、B子は「一度も名前を呼ばれたこともないし、そもそもB子はS男のことをよくないんだよね」といったそうだ。
手などに対して、B子は言葉では説明できないものを感じていたのかもしれない。A子曰く、「口には出さなかったけど、B子は離婚したほうがいいと思っていたじゃないかな」
B子にS男の愚痴をいっていると、少し気持ちが軽くなった。「つらかったら、うちに泊まりに来てもいいからね」という温かい言葉で、A子は救われた気持ちにもなった。
二〇一六年一一月、S男から「もうお前には無理だから」といわれた。A子は納得できなかった。「何がいけないのか?」と聞くと、「料理をしない」「部屋の片付けができない」など、言いがかかりでしかないような理由をあげてきた。A子にとっては、どれもが普通にやっていることである。
その後、息苦しい生活が数カ月も続く。A子は話し合いの機会を与えてもらえない。朝はS男が寝ているうちに出勤することも多く、S男は夜遅くならないと帰ってこない。土日は、一日中S男が外出しているため、話し合う時間がなかった。同じ屋根の下に暮らしていても、顔を合わせることもなくなった。それなのに、S男の存在が部屋中に重くのしかかってくる。家に一人で残されたとき、A子はテレビもつけず、何も口にせず、音もなければ色もない世界で「何がいけなかったのか」「どうすればよかったのか」「これからどうすべきなのか」と自問自答を繰り返すしかなかった。

南のほうから帰宅するS男が吹っ切るように家にいかなくなったのだ。A子が帰宅するといつもS男が家におり、ずっと家にいるような生ぬるい空気が部屋中に立ち込めているのだ。S男がいないときにデスクマットの下を調べてみると、案の定、退職届のコピーが出てきた。
二〇一七年四月、S男は新しい会社に就職した。A子がそれを知ったのは、新しい会社が加入している健康保険の通知書が届いたからだった。「転職したんだ」と思っていたら、S男から最終通告がいい渡された。
「転職したことで給料が下がって家のローンが払えないから、家を出ていく。お前もどっか家を探して」
同時期に離婚も言い渡されたが、簡単にハンを押すわけにはいかない。
S男はマンションを売却するつもりだった。簡易査定に出していたようで、売却金額の見積もりも社宅から届いていた。ただ、S男は勝手にマンションを売却できないでいた。共有名義になっていてわからず、九割がS男、一割がA子の名義だったのである。すべてがS男名義だったら、A子の承諾なしに売れていただう。マンションを購入する際、不動産会社に勤めている幼馴染が、「何かあったほうほういいよ。別に自分で払うわけじゃないし」とアドバイスしてくれたのが、ここにきて活きたのだった。
「売却の時期が延びれば、その分赤字になる。それは慰謝料から引くから」と、脅しのような言葉をかられたA子は、心身ともに限界にきていた。
二〇一七年六月、いつの間にかリビングにあったS男のものがなくなっていた。S男の部屋からダンボールの山がチラリと見えた。S男はすぐにでも家を出ていくようだった。一刻の猶予もないと感じたA子は、親友B子に「弁護士を紹介してほしい」と頼んだ。
B子は「それは一人だけだ!」と思ったに違いない。親友のA子が、まるで栄養失調かのように痩せていくのだ。B子の保険が満期になったタイミングだったようで、保険会社の担当者に弁護士を紹介してもらえないか?」と相談してくれた。保険会社の営業マンであれば、優秀な弁護士の一人や二人は知っているのではないかと考えたのだ。そしてこの担当者のファインプレーは、事情を聞いた上で「弁護士よりも、先に探偵に調査してもらったほうがいい」と判断して、信頼できる探偵をA子に紹介してきてくれたことだ。
探偵に調査を頼んだほうがいいといわれ、A子も何社か探偵社のホームページを見てみた。どの探偵社もピンクを基調にしたページで、怪しいと感じたそうだ。
「ホームページだけを見て依頼できる人は、ある意味すごいと思います」
保険の営業マンが見つけてきたのが、探偵Nだった。探偵Nのほうから「会って話を聞かせてほしい」という連絡があり、A子の自宅近くのカフェで会うことになった。探偵に会うことに多少なりとも不安を抱えていたが、それは初対面で払拭される。真夏にもかかわらず、スーツ姿で現れた探偵Nに、サラリーマンのような真面目さを感じたのだ。

「口数は少なかったですが、親身になってくれているのが伝わりました。怪しさはなかったですね」
A子が話を終えると、探偵Nから最終目的を問われた。「調査をして、どうしたいのか」を問われたのだが、A子は答えることができなかった。複雑にこじれたわけでなく、離婚したいわけでもない。そこまで考える心のゆとりがなかったのだ。A子はただ真実を知りたかった。なぜこんなおかしな状態になっているのか、その原因を知りたかったのである。S男からは「お前が家事をしないせいだ」と責められていたが、それは何度も考えても言いかかりでしかなく、自分に原因があるとは思えない。S男の浮気が原因で、それを隠すために責められているのではないか。
素直な思いをA子は吐露した。つらい思いを受け取った探偵Nは、頭の中で調査にかかりそうな日程を推定したのだろう。その場で六〇万円という見積もり額を提示してきた。それが高いのか安いのか、A子には判断できない。ただ簡単にポンと出せる金額でないことは確かだった。
A子は席を外して実家に電話をかけて、父親の了承を得た。「父親からは『わからないままになるくらいなら、ちゃんと調査してもらってハッキリさせなさい』といわれた。気持ちが固まったA子は、その場で調査の依頼を決めた。二〇一七年七月一三日のことだった。
翌日、A子が六〇万円を振り込んで、正式に調査が開始された。

調査は七回、七月一四日から二週間かけて行う予定だった。対象者であるS男が、自宅を出るところから尾行を開始。会社の行き帰りの行動を調査する。探偵の調査が行われる朝、S男よりも先に家を出たA子は探偵と顔を合わせたが、見つけられなかったという。思わず「どこに張り込んでいたんですか?」と聞いてしまったほど、探偵の姿は隠されていた。
探偵Nからは、LINEで常に報告を受けていた。「これから調査を開始します」「今、会社を出ました」「自宅に帰られたので、今日の調査を終了します」など、頻繁に連絡が入る。しかし、S男は不審な行動をなかなか見せない。最初の三回の調査では、何の成果も得られなかった。
八月三日の木曜日、四回目の調査で、ついにS男に動きがあった。有楽町で女性と合流したのだ。これが浮気相手のU子である。S男とU子は居酒屋に入った。しかしながら、居酒屋から出てきた二人は、そのまま有楽町の駅で別れ、互いの家に帰宅した。決定的な不貞の証拠が取るまでには至らなかった。
その数日前、A子はS男が荷造りをしているのを見かけた。「引っ越すのか」と問いただすと、S男は次の土曜日に引っ越すという。A子の部屋のエアコンは置いていくが、リビングを含む他の部屋のエアコンは持っていくといってS男は譲らなかった。真夏の暑い時期にエアコンを持っていくのかと口論になったのをA子は覚えている。
引っ越すことを探偵Nに伝えると、「車にGPSを付けましょう」といわれた。引っ越しの前日、S男が会社に行って自宅にいないときを見計らって、探偵Nが訪問することになった。マンションの駐車場は、地下と地上に止められる機械式駐車場である。もしS男が車のカギを持って会社に行っていたら、地下に止めてあるS男の車にGPSを付けることはできない。車のカギは駐車場を上げ下げするキーも一緒に付いているからである。S男が家を出ていった後、カギがあるのを確認したA子は探偵Nに連絡。探偵NはGPSの機材を持って午後四時くらいに到着した。
そして、八月五日の土曜日、午前中に引っ越し業者がやって来た。引っ越し業者はS男の荷物を運び出し始める。S男はオーディオ機器にこだわりがあったので、リビングから大型テレビやステレオ、スピーカーなどのオーディオ機器一式を持っていくだった。直前まで使用していたため、その場で配線抜いて慎重に梱包している。
その際、S男が引っ越し業者の行き先を口にしているところを、A子は耳にした。前日にGPSを付けておいて正解だった。
荷物の搬出作業が終わり、S男は自分の車で新居に向かう。探偵NはGPSを確認しながら、S男の車を追跡した。他の探偵が乗ったもう一台の車は、念のため引っ越し業者のトラックを追う。
行き先は浮気相手のU子のところではあったが、そこは二人で新しい生活を営むために借りたマンションだった。すでに二人で入居届も借りていたのだ。場所は、埼玉県。報告を受けたA子は、思わず「三郷、好きだねぇ」とこぼしたそうだ。
A子によると、S男は二週間前の週末に車で出かけていたそうなので、そのときにU子と引っ越したのではないかと推測していた。調査は仕事帰りの平日に集中的に行っていたため、土日はノーマークだったのある。八月三日の居酒屋で食事をしただけで帰宅したのも、二日後には新生活がスタートするのだから、わざわざ騒ぎを交わさなくてもよかったのだろう。
翌日の八月六日(日曜日)が最終七回目の調査だった。S男とU子はスーパーに買い物に出かけた。探偵Nは、そのときの一部始終を動画で撮影。報告によると、二人が並んで歩いているときの様子は、U子がS男を従わせているように見えたという。あのプライドの高いS男が、相手に主導権を握られている。それも信じられなかった。どんな女性なのか気にならなかったわけではないが、浮気相手U子に対しては何も感情がなかった。最初の怒りという感情が激しく燃え上がったが、次第にその炎は弱々しくなり消えていった。A子の心に残ったのは、深い悲しみだった。人格を否定され、次に弱りきった自分の居場所がない悲しみ、こんな男を選んでしまった自分に対する悲しみ、両親に申し訳ないという悲しみ……。
そういった悲しみのすぐ近くで心理が埋もれてしまったのか、相手の女性について考えが及ばなかったのである。
すべての調査が終わった後、動画で浮気相手のU子を確認したが、「なんでこの人なんだろう?」と不思議に思ったそうだ。二〇年も一緒に暮らしていたが、S男の好みはまったくわかっていなかった。どういう女性が好きだとか、芸能人で誰が好きかといった会話もしたことがない。A子は悲しくなった。長い時間を共有していたにもかかわらず、相手のことを何も知らなかったことに、今さらながら気付いたのだ。ガランとしたリビングで一人、静かに涙した。
探偵の提案もあり、翌日の日曜日も調査が行われた。新居から会社に出勤して帰宅する一部始終の撮影だったほうが、証拠能力が強くなるといわれたからだった。実際、その証拠は後ほど役に立つことになる。
S男が八月五日に引っ越したわけだが、その二日前にU子と二人で食事をしている証拠を得れたのは闇雲であった。引っ越した後であればまだしも、まだ離婚していないうえ、不貞の要素は弱くなる。「行ってこい」前に撮影できてよかった、といっていたそうだ。
最終的に、調査費用は見積もり時よりも三〇万円高くなり、合計八〇万円になった。最後の日も調査の追加となったのである。

調査が終わり、証拠も揃ったため、A子は離婚に向けて協議を進めることにした。探偵Nから紹介されたのは、若いけれども切れ者、情熱も持ち合わせる弁護士だった。
離婚するためには、夫婦二人の合意がいる。一方が離婚したくても、もう一方が離婚したくない場合、つまり当事者間での話し合いが困難な場合は、調停や裁判に進まざるを得ない。今回は両名ともに離婚望んでいたので、財産分与の割合や慰謝料について協議がメインになる。どちらからも条件と根拠を記した書面をS男に送るわけだが、浮気の証拠もあるので多少強気な要求も通ると思われた。
ところが、S男が出ていってから一カ月後、A子の元に裁判所から調停期日通知書が届いた。S男が先に調停を申し立ててきたのだ。話し合いをしても埒が明かないと思ったのか、A子と話したくなかったのか、弁護士を立てて向こうから攻め込んできたのだった。
調停期日通知書には、初回の調停期日が記載されており、申立の内容が記載される書類も同封されていた。離婚を望む理由も書かれていたのだが、あいわからず「片付けをしない」「料理をしない」など、家事をしないことを理由に挙げていた。さらに、「飲み会が多い」「交友関係が派手」といった理由もあった。
「言いかかりですよねぇ、弁護士さんに、特に理由がないから無理やり作ったものではないかといってました」
普通に会社勤めをしていれば、同僚と飲みに行くこともある。A子の交友関係は広いが、それは人付き合いが苦手なS男から見ればということだ。特別に飲み会が多かったわけではない。
弁護士とは離婚の協議で仕事をお願いしていたが、急遽、離婚調停の内容に変更。調停のほうが費用が高い。調停が成立するまで何度も裁判所に行く必要があるからだろう。追加の金額を払い、直しで、調停の準備を進めてもらう。といっても、探偵Nが裁判でも使えるように証拠の資料をまとめてくれていたため、当日にそれを持参するだけでよかった。調査報告書には、詳細な行動履歴と写真が掲載されている。浮気の証拠としては十分である。
調停期日通知書が届いてから約一カ月後、初回の調停が行われた。調停では、裁判官ではなく調停委員との話し合いが主だ。調停委員には男女各一名が交互に話を聞く。最初に申立人(S男)と相手方(A子)は挨拶を交わすが、その後は互いの主張を聞くため、顔を合わすことはない。最初に申立人であるS男と女性の調停委員が呼ばれ、次にA子とその連れが呼ばれ、同じくS男は男性の調停委員に調査されたことを知らない。そのため、たとえA子が「S男は浮気をしているな」と主張しても、浮気の証拠がないので、何でも言えると思っていたに違いない。
初回の調停で、S男が浮気していること、現在の相手と一緒に暮らしていること、それらの事実が詳細な証拠と共に白日の下に晒された。S男は自分の弁護士に浮気のことは一切話していなかったのだろう。U子と一緒に暮らしていることも隠していたようだ。裁判所ですべてを暴かれ、まさに見た相手の弁護士の顔は、浮気の事実を初めて知り呆れている様子が滲み出ていた。勝ち戦だと意気揚々と出陣したのに、一刀両断にされ、無残な敗北を余儀なくされたのだから、怒りの感情も含まれていたのかもしれない。
その後の調停で焦点は、財産分与の割合に絞られた。財産といっても、現金による預金はわずかしかなく、マンションの売却額をどう分けるか、だった。

二〇一八年二月、ようやく調停が成立した。合計四回の話し合いが行われた。最後は、S男側が早く終わらせて離婚を成立させたい様子だったという。
結果、A子が七五%、S男が二五%で、数字的には夫婦の勝利だった。ただ、A子はスッキリとはしなかった。金の問題ではなかったからだ。夫婦としては裏切られたこと、人間扱いをされなかったことが、精神的に苦しんだこと、そういった諸々に対しての謝罪がほしかったのだ。
「謝ってほしいということを条件に入れたんですけど、一応『すみませんでした』って小さな声でいっていました。でも、向こうの弁護士さんに隠れるように、目を合わせなかったんで、私は納得できなかったんです。弁護士さんにも『お情けで晴れとした感じでは終わらないですよ』といわれていたので、渋々納得したって感じでした」
後でわかったことだが、浮気相手のU子はすでに妊娠していて、調停成立の翌月が出産予定日だったので、そこから逆算すると相手側は早く調停を終わらせたくて、不利な条件を飲んだのかもしれない。逆算してみると、S男が家を出ていった二〇一七年八月五日には、すでに小さな命が宿っていたことになる。
「調査報告書に写真を見たとき、『あれ? 妊娠しているんじゃないの?』と一瞬思ったんです。妊娠初期でしょうし、お腹も出ていなかったのだけど……。当時は気持ちに余裕がなかったので、そのことですら忘れていました」
妊娠がわかっていたら、それだけで確実な不貞の証拠になる。もっとスムーズに調停を進められただろうし、もっと好条件を勝ち取れた可能性もあった。S男を使わせるようなU子の態度も、妊娠によるものだったのかもしれない。
離婚が成立し直後、A子は自分の両親と共にS男の実家に挨拶に訪れている。ところが、S男の両親は何も知らされていなかった。離婚の調停をしていたことも、別の女性とすでに暮らしていることも知らなかったのだ。
マンションの売却額は五五%に慰謝料も含まれており、売却はA子が行うという条件だった。しかも、九月までという期限が設定されていたこともあって、A子はすぐにマンションを売らなければならなかった。少しでも高く売らないと、自分の取り分が少なくなってしまう。弁護士に信頼できる不動産会社を紹介してもらい、売却の準備に取り掛かった。
二〇一八年七月、マンションを売り出した。マンションの買い手が決まるまで、ほぼすべての週末は内見の立ち会いで、休日はほとんどなかった。そこに住みながらの内見だったので、毎週すみずみまで掃除しなければならない。内見者は、押し入れやクローゼット、トイレの棚など、あらゆる箇所を確認する。一代のマイホームを購入しようとしているのだから仕方ないが、そのために年末の大掃除以上の労力を要した。
しかしながら、マンションは売れなかった。理由は価格設定にあったのだろう。マンションを売却して、そこからローン残高を支払い、残った金額を分けることになる。五〇〇〇万円のローンを組んでから、まだ四年しか経っていない。その割には頑張って返却していたそうだが、ローンの元本は四〇〇〇万円ほど残っていた。
価格設定したのは、弁護士だった。弁護士は独自に不動産価格について勉強していたようで、都心の駅近で低層マンションが人気であること、ほぼ新築の築浅であることから、都心の平均坪単価よりも高い価格で売却できると主張した。不動産会社の営業マンは「その金額では難しいんじゃないか」と難色を示したが、後から価格を下げることが想定しながら、まずは弁護士の提案を採用してくれた。
二〇一八年六月、「価格を下げたほうがいいのでは」という雰囲気が出てきた頃、「購入したい」という人物が現れた。しかも一人で、この地域の低層マンションを探していた。他にも検討している人がいると伝えると、迷うことなく即決してくれた。四年前に七〇〇〇万円で購入したマンションが、約七〇〇〇万円で売却できた。弁護士の価格設定で正解だったのだ。
財産分与の手続きが終わった頃、弁護士から「相手の女性も訴えることができますよ」と教えられた。そこまで考えていなかったが、よくよく考えてみると、S男は売却益からローンの残高を引いた五〇〇万円の二五%(一二五万円)を得たわけで、まったく懐は痛めていないのだ。A子は弁護士の提案に乗ることを決めた。
最初は弁護士間で話し合いをしていたが、相手側がのらりくらりとした返事しかしてこないため、今度はA子のほうから調停を申し立てた。
この段階で、先に述べたU子の妊娠が発覚した。相手の顔を見たくもなかったA子は、調停のやり取りをすべて弁護士に任せ、自分は報告を受けるだけにした。最終的に、二五〇万円の慰謝料を得ることができたが、そこに懲罰は何何もなかった。ただ、二五〇万円という数字が通帳に刻み込まれただけだった。
あれから二年以上が経ち、A子は一人で暮らしている。
「探偵に調査を依頼してよかったですか?」「はい、聞いた。それなりの費用はかかりましたが、調べなければ、一生モヤモヤしたまま暮らしていたかもしれないので、頼んでよかったです」
A子は今も同じ会社に勤めている。「私一人の給料では厳しいので、今のところ、あのときのお金の残りで暮らしています」
また、離婚する人が、まわりに多いことにも気が付いた。
「私が離婚したことを知ったのか、話しかけてくれる人もいて、複雑な事情まで話すようにもなりました。大変なのは自分だけじゃないと思えるようにもなりましたね」

半年ほど前、A子の経緯を知っている友人から「弁護士を紹介してほしい」と相談された。夫が「家を出ていく」と言い出したそうだ。「話を聞いてみると、自分のケースと酷似していた。A子は「それなら、まず探偵を雇ったほうがいいよ」とアドバイスし、探偵Nを紹介した。友人は調停や裁判まではならず、話し合いで解決したそうだ。そのときも探偵の調査が役立ったという。
「探偵さんと弁護士さんの知り合いがいると、本当に心強いですね」
今でも毎月のように当時のことを思い出す。悔しいという気持ちはなかなか消えないが、取材を受け、そうだった、と悪いことだった。時間は少しずつA子の心を癒やしていたのだろう。
「今、会う人、親身になって助けてくれました。親友のB子はもちろんですよ、探偵Nさんそうですし、保険屋さんも弁護士さんも不動産屋さんも、みんないい人ばかりでした」
A子にとってこの一連の出来事は、人間の悪い面ばかりではなく、良い面も見ることができた。食事が喉を通らず、呼吸もできないような重苦しい体験ではあったが、多くの人に支えられていることも感じられた。
今のコロナ禍で、A子は人の温もりほど大事なものはないと改めて実感している。会社にはほとんど出勤せず、自宅でのリモートワークの日々が続いている。誰とも話をせずに終わる日もある。ふとした瞬間に寂しさが込み上げてくることもある。自分だけが世の中から取り残されたような感覚を覚えることもある。無機質な感染者数の速報に気持ちを引きずられることもある。にもかかわらず、ストレスを発散させる機会は少ない。
今回、快く取材に応じてくれたのは、誰かに話を聞いてもらいたい気持ちもあったようだ。話をするだけでも気持ちが軽くなる。温もりのある人との関係を再認識する機会でもあった。
昨年の夏休みに実家に帰ろうとしたとき、父親からは最初に「こういうコロナ禍のご時世だから、無理に帰ってこなくてもいいよ」といわれた。在宅ワークで人と会っていないこと、ほとんど外出していないこと、休みの予定がないことなど、電話で近況を話していたら、父親は「それならば帰ってきなよ」といってくれた。A子の言葉の端々に寂しさが溢れていたのだろう。娘の心境を慮る父親の気持ちが痛いほどよくわかる。結局、A子は二日間の夏休みをずっと実家で過ごした。その気持ちと、心の底から疲弊していたのだろう。子を思う親の気持ち、両親の優しさに甘えたい気持ち、親子の温かい繋がりはいくつになっても変わらない。
明けない夜はない、というが、逆に暮れない昼もない。夜と昼は交互にやってくる。前向きになることもあれば、後ろ向きになるときもある。良いこともあれば、悪いことも起きる。何度も昼夜を繰り返しながら、そして人と助け合いながら、私たちは逞しく生きていくしかない。
人の優しさにも触れたA子は、結婚自体に幻滅していない。
「今は彼はいませんが、いい人がいれば結婚したいですね」