第七章 女探偵、現る
2025年11月19日
探偵はここにいる
森 秀治
これまでの取材で、探偵の仕事には女性が欠かせないことがわかった。探偵は二人一組で動くケースが多いが、ラブホテルに潜入するときに女性がいないと不自然だし、女性を尾行する際は女性探偵のほうが怪しまれにくい。男一人で行動するよりも、男女ペアで動くほうが、周囲から不審成されるくいのである。
しかし、女性探偵に話を聞く機会がなかった。男性探偵に比べ、女性探偵の数は少ないようだ。体力的にも厳しいことは想像できるし、偏見もあるのか、職業の一つとして選択肢に挙がりにくいのだろう。探偵というものは男の職業という先入観もあるのかもしれない。それでも最近では女性探偵の数が増えてきたと聞いていたが、私は探偵ですといいにくいのか、取材に応じてくれる女性探偵は見つからなかった。
会えないとなると余計に会いたくなるのが人間の性である。どうしても話が聞きたいという感情が、日増しに強まっていった。これまでに話を聞かせてもらった探偵にも協力を仰いで、女性探偵に声をかけてもらった。今回の書籍の取材がほぼ終わりに差しかかった頃、ようやく話をしてもいいという女性探偵が現れた。
本書の第一章に登場した真鍋探偵が、自身が経営する探偵社の女性社員を説得してくれたのだ。快諾してくれたのか、半ば強制的なのかはわからないが、こちらとしてはありがたい。さっそく話を聞く手はずを整えることにした。
取材を行ったのは、真鍋探偵と同じ事務所である。数カ月ぶりに訪れた事務所の会議室は見事なほど変化がなかった。整頓された机上には、必要最低限のものしか置いていない。清潔感はあるが、どことなく殺風景でもある。レンタルオフィスの会議室といった感じだが、久しぶりの来訪に安堵するような懐かしさも感じられた。
会議室で編集者Kと待っていると、真鍋と一緒に若い女性が現れた。真鍋は「何でも聞いてください」とだけいい残し、仕事に戻っていった。取り残された二人は形式的な挨拶を交わす。
女性は、前田ゆみと名乗った。大きな目が魅力的な童顔の女性である。肩にかからない程度のまっすぐに伸びた黒髪、ジーンズにトレーナーというラフな服装。必要最低限の化粧が、まるで高校生のようにも見た。街中で見かけても探偵とは思えない、至って普通の女子である。
森「年齢を聞いてもいい?」
前田「以前、自分、二三です。一九九六年の早生まれです」
女性に年齢を聞くのは失礼ではあるが、取材である以上、気にしてはいられない。ちなみに取材を行ったのは、二〇二一年一月末。新型コロナウイルスが騒がれ始めた頃である。まだ日本では本格的な流行が訪れておらず、対岸の火事を見るかのごとく、中国・武漢の異様な街の様子を他事のようにテレビで眺めていた時期である。前田は二月が誕生日だといっていたので、話を聞いたのは二四歳になる直前だったことになる。
森「どのくらい探偵しているの?」
前田「まだ二年くらいです」
森「なんで探偵になったの?」
前田「自分、本当は警察官になりたかったんです。大学生のときに警察官の試験を受けたんですけど、落ちてしまったので、しばらくパチンコ店でフリーターをしていました。チェーンのパチンコ店だったので、アルバイトなのに二年ごとに異動があるんです。それを機に正社員として就職したく転職することにしました」
前田は自分のことを「自分」と呼ぶ。若い女性にしては珍しいが、警察官に憧れていたことが影響しているようだった。刑事ドラマで登場する警察官は、「自分(本官)」という一人称を使うことが多い。そのほうが警察官らしいのだろう。実際の警察官は一人称をそれぞれだろうが、「私が」と聞くよりも「私が」と言うほうが、世間のイメージに前田も感化されたのかもしれない。
森「それで探偵の募集を見つけた?」
前田「そうですね。自分、やっぱり警察官になりたいので、似たような仕事を探していたら、警備とか探偵とかが出てきて。探偵って面白そうだなとも思いました」
森「そんなに警察官になりたかったんだ?」
前田「すっごい警察官に憧れていました。小学生のとき、迷子になったことがあるんです。友だちと買い物に行ったのですが、友だちと別れた後、帰り道がわからなくなったんです。あまり行ったことがないところだったので……。自分、方向音痴なんです」
今でも前田は方向音痴だそうだ。方向音痴の探偵、というのは大きそうだねと聞くと、笑いながら「大変です」と答えていた。
森「迷子になったときに助けてくれたのが警察官だったんだ?」
前田「そうなんです。泣きながら交番に行ったのですが、そのときの警察官がイケメンで、かっこよかったです。それから、自分も警察官になって人助けをしたいと思うようになりました」
神奈川県で生まれた前田は、小学校六年生のときから「将来は警察官になる」という明確な目標を持った。中学校で柔道部に入部したのも、高校で射撃部を選んだのも、すべては警察官になるためだった。
射撃競技には、クレー射撃とライフル射撃がある。クレー射撃は、空中に飛んでいるクレー(小さな皿のようなもの)を撃ち落として得点を競う。ライフル射撃は、固定された的を撃って得点を競い合う競技だ。どちらもオリンピックの正式種目であるが、高校の部活で一般的なのはライフル射撃である。
銃規制の厳しい日本では、高校生が本物のライフルを持つことはできない。そのため、多くの高校の部活動では、ビームライフルで競技を行っている。ビームライフルとは、実弾を使わずに光で的を照射するものだ。
のような四〇代にとっては、ビームライフルといえば『機動戦士ガンダム』である。銃からエネルギーの塊のようなビームを照射して、相手のモビルスーツを溶かして爆発させる。ビームサーベルとともに、ガンダムの主要武器で、当時の子どもたちのガンダム遊びに欠かせないアイテムだった。
もちろん、高校の射撃部で使用するビームライフルは安全なもので、特別な資格も許可もいらない誰でも気軽に射撃を楽しめる、ライフル射撃の入門といえるだろう。
前田が通っていた高校では、このビームライフルだけでなく、エアライフルも使用していた。エアライフルは、火薬を使用した普通の銃ではなく、空気や不燃性のガスで弾を発射する銃のことだ。鉛の弾丸を使用するため、かなりの威力を持っている。狩猟用のライフルで使用されているくらいだ。そのため、エアライフルを所有する場合は、公安委員会に届出て許可を得る必要がある。
中学の柔道部でも、高校の射撃部でも、前田は有望選手というわけではなかった。柔道での得意技は「体落」だったことはうかがい知れたが、黒帯を取得するほどではなかった。射撃も同じ県に強豪校があって、全国大会に行ったことはなかった。柔道をしておけば、射撃をしておけば、警察官になったときに有利だろう、というくらいの気持ちで部活を楽しんだ。
大学で法学部を選択したのも、法律について学ぶことが、警察官として役立つと考えたからである。これだけを聞くと、警察官という夢にまっすぐ進んでいるように見えるが、前田はそれなりに青春時代を謳歌していた。大学では、体育会のボクシング部にマネージャーとして入部。かっこいい先輩がいたからという、いかにも女子大生らしい理由だった。それ以外にも、飲み会がメインのテニスサークルにも所属していた。
憧れていた先輩は、見た目がかっこいいだけでなく、ボクシングも強くて、話も面白かった。二〇一二年のロンドンオリンピックで金メダルを取った村田諒太選手に似た、ワイルド系のイケメンだった。
「自分、かなり面食いだと思います」と、本人がいうように、見た目で惚れてしまう性格なのだろう。だが、村田諒太似の先輩とも、目標だったが一年で実るはずの恋が卒業したため、前田も一年であっさりとボクシング部を辞め、前田の片思いは、憧れのままで終わりのゴングが鳴った。
大学四年生になり、同級生たちが就職活動に精を出し始めると、前田は警察官になるべく、公務員試験の勉強を始めた。前田は、地元の神奈川県警ではなく、東京の警視庁を受験した。採用人数が多いというのがその理由だ。ただし、女性警察官の採用は少ない。警視庁の採用ページでは二〇二一年(令和三年)度の募集要領を確認すると、男性警察官の採用予定人数は一〇二〇名。一方、女性警察官の採用予定人数は一八〇名となっている。同ホームページによると、男性警察官の倍率は約五倍から八倍で、女性警察官の倍率も七倍から九倍ということで、女性のほうが難関である。前田が受験した年度も、おそらく同じような倍率だったに違いない。
一次試験では、教養、論文、作文、国語の科目があり、身体検査と適性検査が行われる。また、初段以上の武道やスポーツの成績、語学などの各種資格も考慮され、合格すれば二次試験に進むことができる。二次試験は面接がメインで、さらに詳細な身体検査と適応検査が行われ、体力検査も行われる。
警察官のハードルは高そうだが、前田は合格すると信じて疑わなかった。小学生の頃からの「警察官になりたい」という夢は、「警察官になるもの」という既定路線と変化していたのだ。それだけに試験に落ちたときのショックは大きかった。
森「今でも警察官にはなりたいの?」
前田「そうですね。再チャレンジしたいです。やっぱり公務員という安定した職業はいいですよね。警察官の制服もかっこいいですし」
森「制服が好きなんだ」
前田「自分、けっこう制服好きなんですよ。医師の白衣も好きです」
探偵として最初の仕事は、まさに白衣を着た医師の素行調査だった。医師である夫が「本当に仕事をしているのか」を調査してほしいという、妻からの依頼である。
対象者である夫は、病院の勤務医であったが、「給料が少ない」という理由で、わずかな金額しか家庭に入れてくれない。無駄遣いをしているようにも、貯金をしているようにも見えなかった。平日は毎日、病院に勤務しているが、その割に収入が少ない。不審に思った妻が、何か隠し事があるのではないかと探偵に依頼してきたのである。
探偵の研修期間中は、あまり難しくない案件を担当することが多い。今回のように、病院での張り込みがメインで、ほとんど動きがない案件から業務に慣れていくのだ。しかし、張り込みだけだからといって、難易度が低いというわけではない。張り込むとき、出入り口から見えにくい場所がなかったり、車を止める場所がなかったりすると、難易度が高くなる。
洗濯偵も病院の駐車場に車を止めて、対象者の様子を窺う。対象者は確かに病院に勤めていたが、少々体調が悪いようだった。三時間に一と外に出てきては、自分の車で休憩していた。休憩時間は五分くらいのときもあれば、一時間ほどのときもあったが、それは昼休みだからかもしれない。「仕事サボっている」といえるほどではなさそうだった。
前田はその調査に一回しか関わらなかったので、その後どうなったか知らないそうだ。何もなかったのかもしれないし、予想外のことが起きたのかもしれない。単純な勤務形態について嘘をついていた、という落ちではないかと想像していた。勤務医といいながら、実際は非常勤で時給制だったのでは、と。謎は謎のままであるが、事情が潜んでいるとは思えない、平和な依頼といえるのではないだろうか。
森「探偵の仕事は面白い?」
前田「そうですね。面白いというよりは、やりがいがありますね。調査が成功して依頼者が喜んでくれると、よかったなってなります」
森「もっとも人助けがしたかったんだもんね」
前田「はい。警察官の仕事と重なるところはあります。最近のことですが、月に一回しか浮気相手と会わない対象者がいて、その限られた日にキスシーンを撮影できたときは、嬉しかったですね」
森「それは、どういう依頼だったの?」
前田「男性の依頼者で奥さんの浮気調査です。対象者のある奥さんが、こういう人に会うんだと、友だちに話していたようで、それが旦那さんの耳に入ったみたいです」
森「ずいぶん脇の甘い人だね。いつも決まった日とかに?」
前田「そうでもないみたいです。毎月、友だちと飲みに行くことが数日あるようで、そのどこかで接触しているようです。『今日、飲みに行くといっています』という連絡が依頼者からあって、急遽チームを組んだって感じです」
森「尾行は、家を出るところから?」
前田「対象者が働いていたので、職場からでした。たしか、七時半くらいに会社を出て、居酒屋に入ったのが八時半くらいだったでしょうか。一二時過ぎには居酒屋から出てきました」
森「その間、ずっと外で待っていたの?」
前田「そうです。先輩と二人、外で立ちっぱなしの張り込みでしたね。一度だけ、店内の様子を見るために中に入りました。『待ち合わせなんですけど、もう来ているかもしれないので見ていいですか?』ってお願いして、店内を見させてもらいました」
森「二人は仲良く飲んでいた?」
前田「はい、短時間でしたが、そのときの動画を撮影しました。対象者は店内で待ち合わせをしていたので、相手の顔を確認できました」
森「居酒屋を出た後は?」
前田「手は繋いでいなかったですけど、肩を寄せ合うように歩いていましたね。どう見ても恋人のように見えるんですけど、決定的な証拠ではありません。二人で飲んで仲良く歩いているだけでは、浮気と断定できないですから」
森「どこからが浮気かって、個人差があるしね」
前田「そうですね。そこは難しいところです」
一緒に食事をしただけで浮気だという人もいれば、キスぐらいは挨拶のようなものだという人もいる。身体の浮気は許せても、心の浮気は許せない……。そういう人もいるだろう。風俗は浮気になるのか、キャバクラはセーフなのか……。浮気というのは心の問題も含まれるため、人によって境界線が曖昧である。育った国や文化、宗教によっても変わってくるし、世代や性別によっても考え方が違う。究極の多様性といえるのかもしれない。ただ、相手の考え方を尊重することは難しそうである。離婚は、婚姻関係にない男女が複数回にわたる性行為をすれば、それは不貞行為とみなされる。重要なサイトは複数回という点だ。一回の証拠をつかんだとしても、それだけでは不貞行為とみなされないこともある。一度の過ちは気の迷いとして処理され、浮気であったとしても不貞行為にはあたらない。離婚の理由にならないのである。法の番人はそう考えているのだろう。
複数回の不貞行為という証拠を収めるには、何度も調査しなければならないが、その分調査費用も高額になってくる。対象者にすべての証拠を開示しないのは、「どこまで知っているのだろう?」と思わせて、浮気を認めさせるため、一回の証拠しかないまでも、何もかも知っているかのように振る舞うのだ。やましいことがある対象者は、大概がそれを信じる。その場の重苦しい状況から逃れるように、浮気を認めるのである。
その後、二人は公園を散歩して、ベンチに座りました。しばらくすると、キスが始まりました。とても濃厚なキスでした。
森「キスだけ?」
前田「そうですね。外だったので、それ以上はなかったです。誰が見ても恋人同士のキスでした」
森「相手はどういう人だったの?」
前田「対象者が通っていた体操教室の先生でした。四〇代くらいです。ひょっとしたら相手は既婚者かもしれませんが、まだそこまではわかっていません。浮気相手の宅割り(自宅住所を特定すること)をしなかったんですが、相手が自転車だったんで、追えませんでした。次回会う日を待っているところです」
森「次の機会がきたら、また前田さんが担当するの?」
前田「そうですね。この案件は指名なので、たぶん自分が担当します」
森「指名があったんだ?」
前田「対象者が女性の場合、女性の探偵を指名する依頼者も多いです」
男性からの依頼、つまり対象者が女性となる依頼も増えてきたこともあり、女性探偵の需要が増えている。尾行する対象者が女性の場合、探偵も女性のほうが警戒されにくい。男性よりは防衛本能が強い女性は、知らない男性がついてきていないか、反射的に確認するものである。夜間の住宅街を尾行する場合は、特にそうだろう。ときには、オートロックの入口を一緒に入らなければいけないこともある。女性探偵のほうが行動しやすい場面も多いのだ。
また、男性、女性に関係なく、異性のほうが視界に入りやすい傾向がある。前田も「あの人イケメンだなあと印象に残ったら、別の場所で会ってもすぐ気付きますよ」といっていた。同性よりも異性に目が行きがちなのは、誰でも同じだろう。「かっこいい人いないかな」「かわいい子いないかな」という心の声は、無意識に視線として表れているのかもしれない。
女性探偵が重宝される理由はそれだけではない。対象者が女性専用車両に乗った場合、男の探偵では手も足も出ない。男性が入りにくい場所を対象者(女性)が訪れることも多い。百貨店のショッピングモールなど、女性を対象にしたフロアで男性がウロウロしていると目立ってしまう。
森「女性ならではのつらさってある?」
前田「そうですね……。トイレですかね。男の人のように簡単にはというわけにはいかないので。ちょっと代わってもらって、コンビニに走ったりします。そのためにも、なるべく水分を取らないようにしています」
森「会社や同僚から女性として気遣ってもらうことはあるの?」
前田「いや、ないですね。生理休暇もないですし、つらくても気遣ってもらえません」
森「そのあたりは、女性探偵がもっと増えてきたら変わってくるんだろうね。他に女性ならではのことってある?」
前田「訪問でいやされることが多いです」
森「訪問っていうのは?」
前田「イチタイ(第一対象者)が浮気相手の家を直接訪れる場合、浮気相手であるニタイ(第二対象者)の顔がわからないですよね。もし家の中にいて外に出てこない、もしくはイチタイだけが出入りして、ニタイの動きがない場合があります。そういうとき、インターフォンを押して浮気相手が出てくるところを別の探偵が撮影するんです」
森「それでかなりの勇気がいるね」
前田「ホント、緊張します。自分、緊張しいなんで」
森「どういうふうに訪問するの?」
前田「よく使うのは、『(第一対象者の)ポストに入っている郵便物を抜いて、すみません、うちに郵便物が間違って入っていたんですけど、見てもらってもいいですか?』という方法です。後は、『ベランダに物が落ちてしまったんですが、取ってもらえないでしょうか?』というのもあります」
森「その場合、何かベランダに投げ入れるわけ?」
前田「そうですね。洗濯物が飛んでいったのを装って、服を投げ入れたりしますね」
森「かなり強引だね」
前田「だから緊張するんですよ。強引でも、面割り(対象者の顔を撮影すること)したいときってあるんです」
前田は、最近あった面白い依頼を教えてくれた。
企業からの依頼で、「辞めた人を悔しがらせてほしい」という一風変わった内容だった。優秀な社員がヘッドハンティングされて転職したのだが、そのことを後悔させてほしいのだという。
対象者が自宅から出てくると、家の前に変な五人が待ち構え、対象者を睨んでいる。電車に乗っているときは、その五人の探偵が、対象者に接近して、顔やスマホを覗いたり、あからさまに対象者の写真を撮ったりする。エレベーターに乗ったら、探偵たちも乗り込む。会社から出てきたら、やはりその五人が待ち構えていて、自宅まで陰湿についてくる」
完全に嫌がらせだ。しかも、子どものいたずらレベルである。ぎりぎり犯罪にならない程度の嫌がらせ、ということなのだろう。
このような嫌がらせを月曜日から金曜日まで続けた。対象者は、最初はまったく無警戒で、気付いてさえもいない様子だった。さすがに三日目を迎うごとに、怪しい連中の存在に気付き、水曜日には何度も後ろを振り返ったりするなど、警戒心を強めていった。しかしながら、対象者のほうから話しかけてくることも、通報することもなかったそうだ。
この仕事は普段と違い、探偵は姿を隠す必要がない。探偵にとっては、たまったストレスを発散できる痛快な仕事だった。「次はどんなことをしようか」と、探偵同士でアイディアを出し合ったという。前田も「こんなことしちゃっていいのかなって思いましたが、ものすごく楽しかったです!」と飛びきりの笑顔を見せてくれた。
依頼者である企業(対象者が勤めていた会社)は、それで満足したのだろうか。対象者は会社を裏切って、ライバル会社に転職したのだろう。社内の情報や顧客を持っているのかもしれない。
何かしらの理由があって、対象者に警告したかった可能性もある。無言の脅しとも含まれていないと、大金を使って探偵に依頼する理由が思い浮かばない。
まったくもって理不尽な嫌がらせに違いないが、腹の虫が治まらないだけだったのかもしれない。この世の中は醜い感情も動いている。もともとらしい理由など、後から何とでも付けられる。
対象者にとっては悔しいだろうが、聞いている者としては、思わず笑ってしまう話だった。どうでもいいことだが、この調査は経費で落ちるのだろうか。落ちるとしたら、勘定科目は何と記載するのだろうか。「雑費」にできるほど安い金額ではないだろう。
この話には後日談がある。
嫌がらせを受けた男性は、前田の探偵社に今度は依頼者として現れたのだ。依頼内容は、「勤めている会社の企業調査」である。要するに、今回の嫌がらせは新しく転職した会社によるものではないかと疑い、調査を依頼してきたのである。一連の嫌がらせが、前の会社からによるものだと、この男性は最後まで気付かなかったことになる。
森「そんな会社、辞めてよかったのかもしれないね」
前田「新しい会社を調査しても、何も不審なところはなかったので、対象者だけがいまだに『あれは何だったんだろう?』ってモヤモヤしながら暮らしているじゃないですかね」
森「モヤモヤしてるだろうね」
前田「間違いないと思います。それとは別の依頼ですが、自分ら探偵がモヤモヤしたままの案件もあります。失敗ではないんですが、不発といいますか、どうなっているのか理解できないような案件でした」
森「それはどういう依頼だったの?」
前田「対象者は男性で、奥さんからの素行調査です。対象者である旦那さんが週に二、三日しか家に帰ってこないみたいで、ほとんど外泊しているという状態でした」
森「それは浮気調査ではないの?」
前田「浮気調査も素行調査の一種なんです。外泊が多いだけでは浮気とは断定できないので、一応、素行調査ということで開始しました。勤務先の退社時から調査をスタートしたのですが、途中でタイ(第一対象者)の女性と接触して、その女性の家に入っていきました」
森「やっぱり浮気だったんだ」
前田「そうなんですが、そんな単純じゃなかったんですよ」
前田たち探偵は、第二対象者の家を終電近くまで張り込んでいたが、動きがなかったため、その日は解散して、翌早朝に張り込みを再開した。次の日の朝には出てくるだろうと待っていたが、出てこない。平日であったが、仕事は休みだったのだろう。
前の晩、前田はアジの開きと落ち葉を挟む仕掛けをしておいた。出入りを確認するためだ。翌朝確認すると、落ち葉は落ちていた。ドアを開けなければ落ちないように挟んでおいたので、誰かが出入りしたのは間違いない。その間に対象者が帰宅した可能性も否定できないが、依頼者に確認すると、自宅には戻っていないので、そのまま張り込みを継続した。
昼過ぎに動きがあった。第二対象者の家から女性が出てきたのだ。しかも、第一対象者ではない女性が出てきたのである。前田ら探偵の頭の中は〝はてな〟になる。「なんだ? こいつは?」と。
状況を整理すると、昨晩は対象者と第二対象者の二人きりではなかったということだ。夜中に出入りしたのは、この女性だったのかもしれない。「二人とも女性だから、不貞は不貞よね?」ということで、調査は続けられた。
それからしばらくすると、対象者と第二対象者が出てきて、パチンコに行ったり、コンビニに寄ったりなどして時間を潰していた。文字どおり、暇な時間をつぶすようにブラブラしていたのだった。「対象はいつ自宅に帰るんだ?」という疑問をよそに、対象者は一向に帰る気配を見せない。
今晩も第二対象者の家に泊まるつもりなのか、近所のスーパーで夕飯の買い出しを始めた。そこで、なんと昼間に出ていった謎の女性と合流したのである。しかも、その女性の彼氏と思われる男性も一緒だった。結局、対象者らは四人で第二対象者の家に戻っていったのである。
第二対象者の部屋は典型的なワンルームであることがわかっており、四人で過ごすには狭すぎる。前田の頭の中は混乱に陥っていた。「四人はどういう関係なんだろう?」「ニタイは何をしている人物なんだろう?」「そもそも、あの部屋は誰の部屋なんだろう?」……。
四人が一緒にいるという状況では、不貞が行われていたとしても、証拠能力は弱くなる。仲間で遊んでいただけだといわれれば、その反証ができないからだ。夜中のうちに誰かが帰るのではないかと、夜通し張り込んでみたが、その日は誰も出入りもなかった。
調査三日目――。その日も対象者は会社に出勤せず、第一対象者の部屋で過ごした。第二対象者の女性も仕事に出かけない。この女性は働いていないのかもしれない。その日も、前日と同じように一日をダラダラと過ごして終わった。対象者はその日も自宅には帰らず、第二対象者の部屋に戻っていった。
結局、そこで調査は打ち切りとなる。依頼者が諦めたのだ。これ以上調査費用はかけられない、という判断だった。
森「それはモヤモヤするね」
前田「もう少し調査すれば、何かがわかったかもしれませんが、真相は謎のままです」
森「対象者が部屋にいるとき、訪問はしなかったの?」
前田「ちょうどいい郵便物がなかったのでもありますし、相手の存在が謎だったので、訪問する理由が難しかったのもあります」
森「彼女の家かどうかも怪しいもんね」
前田「そうなんですよ。張り込み中にドアに耳をあてて室内の音を聞いたりもしました。何か聞こえなかったですけど……。あと、ドアのポストから覗いたりもしました」
森「そこまでするんだ。何か見えた?」
前田「靴があるのだけは見えました。ずっと観ているわけにもいかないので、何かチラシを入れて、チラッと覗く程度なので、よくわからなかったです」
森「この案件もそうだけど、他にも自発的に浮気をしている男女を見ていて、前田さんはどう思ったりするの?」
前田「そうですね……。自分、そういうのは何とも思わないです。自分の彼氏が浮気していたら、話は別ですけど」
森「今は彼氏は?」
前田「はい、います。パチンコ店で勤めていたときの同僚です」
森「どういう出会いだったか、聞いてもいい?」
前田「自分から声をかけました。顔が好みだったので……」
彼氏も酒好きだったこともあり、前田は飲みに誘ったそうだ。何度も飲んでいるうちに、彼氏彼女の関係になったそうだが、話はそれほど単純ではなかった。
当時の前田には彼氏がいたのである。前田の気持ちはすでに切れていたようだが、同棲していたこともあり、なかなか別れをいい出せずにいた。彼氏の家に住んでいたので、自分が出ていかなければならず、かといって身を寄せる場所もなかった。要するに、一時期二股をかけていたことになる。
最終的に、前田は元彼の家を出て、新しい彼氏の家に転がり込んだ。今も、そのまま一緒に暮らしている。
森「彼氏は探偵の仕事についてどう思っているの?」
前田「すごく理解してくれています。自分、仕事の話はあまりしないんですけど、長いと一日ぐらい帰れないじゃないですか。そういうときでも、家事とかしてくれています」
森「心配されたりは?」
前田「たぶん、そんなに心配はしていないはずです。睡眠不足だったりすると、『大丈夫?』って、身体の心配はしてくれますけど」
森「逆に、二、三日家を空けると、彼氏のことが心配にならない?」
前田「心配にならないですね。もし浮気していたら、すぐに気付くと思います」
森「さすが探偵だね。この仕事をしていて、そういう感覚は鋭くなった?」
前田「鋭くなりましたね」
前田はその彼氏との結婚も視野に入れているそうだが、彼氏にはまだその気がないらしい。探偵という特殊な職業上、恋人ができにくいと聞くが、前田は順調な交際を続けているようだった。一緒生活をしている安心感が互いの信頼に繋がっているのかもしれないが、それだけではないだろう。
同棲していながらその悩みや心配もあるのだ。なかなか家に帰ってこない、いつ帰ってくるかわからないというのは、予定も立てられないし、行動も制限されてしまう。早く帰ってくると言えば、夕食を一緒に食べたいし、外出しにくくなるだろう。にもかかわらず、予定が変わって相手の帰りが遅くなったら、その期待は不信や喧嘩の種に変貌する。小さな心の澱になり、二人の間に深い溝を生み出す可能性も秘めている。
一人で待ち続ける孤独は、想像してみると想像以上に心を蝕むものだ。人間の想像力というのは、良い想像だけでなく、悪い想像においても限りがない。負の無限ループが頭の中を這いずり回り、心の養分を吸い尽くしていく。耐えられない不安と寂しさを埋めるように、心ない誘いに身を委ねてしまう相手を責めることができるだろうか。
結婚していれば、その悩みや心配はより大きなものだろうし、子どもがいれば、また別の悩みも生まれる。男性探偵が不規則な偽りを持つ妻の苦労やストレスを計り知れない。探偵の取材を進めていくにつれ、探偵にとって結婚生活というのが鬼門なのだと感じていた。
時間的に不規則な職業は他にもたくさんあるが、仕事の始まりと終わりが定かではない職業は限られる。予定が立たない相手との生活は並行でしかない。期待が裏切られ続けるにつれ、最初から期待しないように防衛本能が働く。諦めの境地に達したとき、「なぜ結婚しているのだろう?」――という疑問が脳裏を占領しても不思議ではない。
今の時代では珍しくなりつつあるが、探偵業界は、まだ、そういう世界である。依頼者の要望、対象者の行動に左右される業務だけに、働き方改革が進みにくいのだ。プライベートを犠牲にして働くスタイルは、最近の若者には受け入れられにくいだろう。すぐに辞める人が多いのも頷ける。前田も今後の働き方について、思うことがあるようだ。
前田「まだ警察官になりたいというのは諦めていないですけど、探偵を続けるにしても、このままずっと同じようには働けないですよね」
森「やっぱりしんどい?」
前田「そうですね。休みが不規則なので、プライベートの予定が立てられないというのがネックですね。うちの会社はまだいいほうで、今後、固定休を作っていこうという動きがあるみたいですが、……。何曜日が休みってはっきり決まっていれば、また違ってくるのでしょうか……」
森「探偵を続けるとしたら、どういう探偵になりたい?」
前田「依頼者と直接関わる相談員という立場になりたいです。依頼者に寄り添いながら、一番近くで手助けをしたいです」
森「相談員にはどうやってなるの?」
前田「見習いとしての経験を積んだ先にあるのでしょうが、社内でも相談員だけの人は少ないですね。相談員兼調査員みたいな人は何人かいます。会社が大きくなっていけば、相談員も増えるので、まずは目先の調査を頑張るしかないですね」
困っている人を助けたい――。助けを求めている人に手を差し伸べたい――。
前田の根本にあるのは人助けの精神である。それは小学生の頃に受けた警察官の優しさに起因するといっていたが、生まれ持った気質がそれによって開花しただけであろう。多かれ少なかれ誰もが、人を助けたい、人の優しさや温かさに触れてきたはずだ。共感力の強い前田は、依頼者の気持ちに寄り添える、心優しい探偵なのだろう。
探偵というタフな仕事を何年も続けるためには、給与や勤務時間といった待遇面での改善だけでは難しいのかもしれない。前田のような正義感の強さ、人のためという奉仕の精神がないと、身が持たない職でもあるのだろう。生半可な気持ちで継続できる仕事ではないのだ。
森「探偵になって、何か変化したことある?」
前田「あんまり飲みに行かなくなりましたね。深酒すると、次の日しんどいですから。あとは、ちょっと太ってしまいました」
森「それはなんで?」
前田「不摂生な生活を続けているからですね。張り込みしているときも、どうしてもお菓子とかつまんでしまいます。変な時間にご飯を食べますし、コンビニ弁当ばかりなので」
森「今、何が食べたい?」
前田「焼き肉ですね」
しかし、女性探偵に話を聞く機会がなかった。男性探偵に比べ、女性探偵の数は少ないようだ。体力的にも厳しいことは想像できるし、偏見もあるのか、職業の一つとして選択肢に挙がりにくいのだろう。探偵というものは男の職業という先入観もあるのかもしれない。それでも最近では女性探偵の数が増えてきたと聞いていたが、私は探偵ですといいにくいのか、取材に応じてくれる女性探偵は見つからなかった。
会えないとなると余計に会いたくなるのが人間の性である。どうしても話が聞きたいという感情が、日増しに強まっていった。これまでに話を聞かせてもらった探偵にも協力を仰いで、女性探偵に声をかけてもらった。今回の書籍の取材がほぼ終わりに差しかかった頃、ようやく話をしてもいいという女性探偵が現れた。
本書の第一章に登場した真鍋探偵が、自身が経営する探偵社の女性社員を説得してくれたのだ。快諾してくれたのか、半ば強制的なのかはわからないが、こちらとしてはありがたい。さっそく話を聞く手はずを整えることにした。
取材を行ったのは、真鍋探偵と同じ事務所である。数カ月ぶりに訪れた事務所の会議室は見事なほど変化がなかった。整頓された机上には、必要最低限のものしか置いていない。清潔感はあるが、どことなく殺風景でもある。レンタルオフィスの会議室といった感じだが、久しぶりの来訪に安堵するような懐かしさも感じられた。
会議室で編集者Kと待っていると、真鍋と一緒に若い女性が現れた。真鍋は「何でも聞いてください」とだけいい残し、仕事に戻っていった。取り残された二人は形式的な挨拶を交わす。
女性は、前田ゆみと名乗った。大きな目が魅力的な童顔の女性である。肩にかからない程度のまっすぐに伸びた黒髪、ジーンズにトレーナーというラフな服装。必要最低限の化粧が、まるで高校生のようにも見た。街中で見かけても探偵とは思えない、至って普通の女子である。
森「年齢を聞いてもいい?」
前田「以前、自分、二三です。一九九六年の早生まれです」
女性に年齢を聞くのは失礼ではあるが、取材である以上、気にしてはいられない。ちなみに取材を行ったのは、二〇二一年一月末。新型コロナウイルスが騒がれ始めた頃である。まだ日本では本格的な流行が訪れておらず、対岸の火事を見るかのごとく、中国・武漢の異様な街の様子を他事のようにテレビで眺めていた時期である。前田は二月が誕生日だといっていたので、話を聞いたのは二四歳になる直前だったことになる。
森「どのくらい探偵しているの?」
前田「まだ二年くらいです」
森「なんで探偵になったの?」
前田「自分、本当は警察官になりたかったんです。大学生のときに警察官の試験を受けたんですけど、落ちてしまったので、しばらくパチンコ店でフリーターをしていました。チェーンのパチンコ店だったので、アルバイトなのに二年ごとに異動があるんです。それを機に正社員として就職したく転職することにしました」
前田は自分のことを「自分」と呼ぶ。若い女性にしては珍しいが、警察官に憧れていたことが影響しているようだった。刑事ドラマで登場する警察官は、「自分(本官)」という一人称を使うことが多い。そのほうが警察官らしいのだろう。実際の警察官は一人称をそれぞれだろうが、「私が」と聞くよりも「私が」と言うほうが、世間のイメージに前田も感化されたのかもしれない。
森「それで探偵の募集を見つけた?」
前田「そうですね。自分、やっぱり警察官になりたいので、似たような仕事を探していたら、警備とか探偵とかが出てきて。探偵って面白そうだなとも思いました」
森「そんなに警察官になりたかったんだ?」
前田「すっごい警察官に憧れていました。小学生のとき、迷子になったことがあるんです。友だちと買い物に行ったのですが、友だちと別れた後、帰り道がわからなくなったんです。あまり行ったことがないところだったので……。自分、方向音痴なんです」
今でも前田は方向音痴だそうだ。方向音痴の探偵、というのは大きそうだねと聞くと、笑いながら「大変です」と答えていた。
森「迷子になったときに助けてくれたのが警察官だったんだ?」
前田「そうなんです。泣きながら交番に行ったのですが、そのときの警察官がイケメンで、かっこよかったです。それから、自分も警察官になって人助けをしたいと思うようになりました」
神奈川県で生まれた前田は、小学校六年生のときから「将来は警察官になる」という明確な目標を持った。中学校で柔道部に入部したのも、高校で射撃部を選んだのも、すべては警察官になるためだった。
射撃競技には、クレー射撃とライフル射撃がある。クレー射撃は、空中に飛んでいるクレー(小さな皿のようなもの)を撃ち落として得点を競う。ライフル射撃は、固定された的を撃って得点を競い合う競技だ。どちらもオリンピックの正式種目であるが、高校の部活で一般的なのはライフル射撃である。
銃規制の厳しい日本では、高校生が本物のライフルを持つことはできない。そのため、多くの高校の部活動では、ビームライフルで競技を行っている。ビームライフルとは、実弾を使わずに光で的を照射するものだ。
のような四〇代にとっては、ビームライフルといえば『機動戦士ガンダム』である。銃からエネルギーの塊のようなビームを照射して、相手のモビルスーツを溶かして爆発させる。ビームサーベルとともに、ガンダムの主要武器で、当時の子どもたちのガンダム遊びに欠かせないアイテムだった。
もちろん、高校の射撃部で使用するビームライフルは安全なもので、特別な資格も許可もいらない誰でも気軽に射撃を楽しめる、ライフル射撃の入門といえるだろう。
前田が通っていた高校では、このビームライフルだけでなく、エアライフルも使用していた。エアライフルは、火薬を使用した普通の銃ではなく、空気や不燃性のガスで弾を発射する銃のことだ。鉛の弾丸を使用するため、かなりの威力を持っている。狩猟用のライフルで使用されているくらいだ。そのため、エアライフルを所有する場合は、公安委員会に届出て許可を得る必要がある。
中学の柔道部でも、高校の射撃部でも、前田は有望選手というわけではなかった。柔道での得意技は「体落」だったことはうかがい知れたが、黒帯を取得するほどではなかった。射撃も同じ県に強豪校があって、全国大会に行ったことはなかった。柔道をしておけば、射撃をしておけば、警察官になったときに有利だろう、というくらいの気持ちで部活を楽しんだ。
大学で法学部を選択したのも、法律について学ぶことが、警察官として役立つと考えたからである。これだけを聞くと、警察官という夢にまっすぐ進んでいるように見えるが、前田はそれなりに青春時代を謳歌していた。大学では、体育会のボクシング部にマネージャーとして入部。かっこいい先輩がいたからという、いかにも女子大生らしい理由だった。それ以外にも、飲み会がメインのテニスサークルにも所属していた。
憧れていた先輩は、見た目がかっこいいだけでなく、ボクシングも強くて、話も面白かった。二〇一二年のロンドンオリンピックで金メダルを取った村田諒太選手に似た、ワイルド系のイケメンだった。
「自分、かなり面食いだと思います」と、本人がいうように、見た目で惚れてしまう性格なのだろう。だが、村田諒太似の先輩とも、目標だったが一年で実るはずの恋が卒業したため、前田も一年であっさりとボクシング部を辞め、前田の片思いは、憧れのままで終わりのゴングが鳴った。
大学四年生になり、同級生たちが就職活動に精を出し始めると、前田は警察官になるべく、公務員試験の勉強を始めた。前田は、地元の神奈川県警ではなく、東京の警視庁を受験した。採用人数が多いというのがその理由だ。ただし、女性警察官の採用は少ない。警視庁の採用ページでは二〇二一年(令和三年)度の募集要領を確認すると、男性警察官の採用予定人数は一〇二〇名。一方、女性警察官の採用予定人数は一八〇名となっている。同ホームページによると、男性警察官の倍率は約五倍から八倍で、女性警察官の倍率も七倍から九倍ということで、女性のほうが難関である。前田が受験した年度も、おそらく同じような倍率だったに違いない。
一次試験では、教養、論文、作文、国語の科目があり、身体検査と適性検査が行われる。また、初段以上の武道やスポーツの成績、語学などの各種資格も考慮され、合格すれば二次試験に進むことができる。二次試験は面接がメインで、さらに詳細な身体検査と適応検査が行われ、体力検査も行われる。
警察官のハードルは高そうだが、前田は合格すると信じて疑わなかった。小学生の頃からの「警察官になりたい」という夢は、「警察官になるもの」という既定路線と変化していたのだ。それだけに試験に落ちたときのショックは大きかった。
森「今でも警察官にはなりたいの?」
前田「そうですね。再チャレンジしたいです。やっぱり公務員という安定した職業はいいですよね。警察官の制服もかっこいいですし」
森「制服が好きなんだ」
前田「自分、けっこう制服好きなんですよ。医師の白衣も好きです」
探偵として最初の仕事は、まさに白衣を着た医師の素行調査だった。医師である夫が「本当に仕事をしているのか」を調査してほしいという、妻からの依頼である。
対象者である夫は、病院の勤務医であったが、「給料が少ない」という理由で、わずかな金額しか家庭に入れてくれない。無駄遣いをしているようにも、貯金をしているようにも見えなかった。平日は毎日、病院に勤務しているが、その割に収入が少ない。不審に思った妻が、何か隠し事があるのではないかと探偵に依頼してきたのである。
探偵の研修期間中は、あまり難しくない案件を担当することが多い。今回のように、病院での張り込みがメインで、ほとんど動きがない案件から業務に慣れていくのだ。しかし、張り込みだけだからといって、難易度が低いというわけではない。張り込むとき、出入り口から見えにくい場所がなかったり、車を止める場所がなかったりすると、難易度が高くなる。
洗濯偵も病院の駐車場に車を止めて、対象者の様子を窺う。対象者は確かに病院に勤めていたが、少々体調が悪いようだった。三時間に一と外に出てきては、自分の車で休憩していた。休憩時間は五分くらいのときもあれば、一時間ほどのときもあったが、それは昼休みだからかもしれない。「仕事サボっている」といえるほどではなさそうだった。
前田はその調査に一回しか関わらなかったので、その後どうなったか知らないそうだ。何もなかったのかもしれないし、予想外のことが起きたのかもしれない。単純な勤務形態について嘘をついていた、という落ちではないかと想像していた。勤務医といいながら、実際は非常勤で時給制だったのでは、と。謎は謎のままであるが、事情が潜んでいるとは思えない、平和な依頼といえるのではないだろうか。
森「探偵の仕事は面白い?」
前田「そうですね。面白いというよりは、やりがいがありますね。調査が成功して依頼者が喜んでくれると、よかったなってなります」
森「もっとも人助けがしたかったんだもんね」
前田「はい。警察官の仕事と重なるところはあります。最近のことですが、月に一回しか浮気相手と会わない対象者がいて、その限られた日にキスシーンを撮影できたときは、嬉しかったですね」
森「それは、どういう依頼だったの?」
前田「男性の依頼者で奥さんの浮気調査です。対象者のある奥さんが、こういう人に会うんだと、友だちに話していたようで、それが旦那さんの耳に入ったみたいです」
森「ずいぶん脇の甘い人だね。いつも決まった日とかに?」
前田「そうでもないみたいです。毎月、友だちと飲みに行くことが数日あるようで、そのどこかで接触しているようです。『今日、飲みに行くといっています』という連絡が依頼者からあって、急遽チームを組んだって感じです」
森「尾行は、家を出るところから?」
前田「対象者が働いていたので、職場からでした。たしか、七時半くらいに会社を出て、居酒屋に入ったのが八時半くらいだったでしょうか。一二時過ぎには居酒屋から出てきました」
森「その間、ずっと外で待っていたの?」
前田「そうです。先輩と二人、外で立ちっぱなしの張り込みでしたね。一度だけ、店内の様子を見るために中に入りました。『待ち合わせなんですけど、もう来ているかもしれないので見ていいですか?』ってお願いして、店内を見させてもらいました」
森「二人は仲良く飲んでいた?」
前田「はい、短時間でしたが、そのときの動画を撮影しました。対象者は店内で待ち合わせをしていたので、相手の顔を確認できました」
森「居酒屋を出た後は?」
前田「手は繋いでいなかったですけど、肩を寄せ合うように歩いていましたね。どう見ても恋人のように見えるんですけど、決定的な証拠ではありません。二人で飲んで仲良く歩いているだけでは、浮気と断定できないですから」
森「どこからが浮気かって、個人差があるしね」
前田「そうですね。そこは難しいところです」
一緒に食事をしただけで浮気だという人もいれば、キスぐらいは挨拶のようなものだという人もいる。身体の浮気は許せても、心の浮気は許せない……。そういう人もいるだろう。風俗は浮気になるのか、キャバクラはセーフなのか……。浮気というのは心の問題も含まれるため、人によって境界線が曖昧である。育った国や文化、宗教によっても変わってくるし、世代や性別によっても考え方が違う。究極の多様性といえるのかもしれない。ただ、相手の考え方を尊重することは難しそうである。離婚は、婚姻関係にない男女が複数回にわたる性行為をすれば、それは不貞行為とみなされる。重要なサイトは複数回という点だ。一回の証拠をつかんだとしても、それだけでは不貞行為とみなされないこともある。一度の過ちは気の迷いとして処理され、浮気であったとしても不貞行為にはあたらない。離婚の理由にならないのである。法の番人はそう考えているのだろう。
複数回の不貞行為という証拠を収めるには、何度も調査しなければならないが、その分調査費用も高額になってくる。対象者にすべての証拠を開示しないのは、「どこまで知っているのだろう?」と思わせて、浮気を認めさせるため、一回の証拠しかないまでも、何もかも知っているかのように振る舞うのだ。やましいことがある対象者は、大概がそれを信じる。その場の重苦しい状況から逃れるように、浮気を認めるのである。
その後、二人は公園を散歩して、ベンチに座りました。しばらくすると、キスが始まりました。とても濃厚なキスでした。
森「キスだけ?」
前田「そうですね。外だったので、それ以上はなかったです。誰が見ても恋人同士のキスでした」
森「相手はどういう人だったの?」
前田「対象者が通っていた体操教室の先生でした。四〇代くらいです。ひょっとしたら相手は既婚者かもしれませんが、まだそこまではわかっていません。浮気相手の宅割り(自宅住所を特定すること)をしなかったんですが、相手が自転車だったんで、追えませんでした。次回会う日を待っているところです」
森「次の機会がきたら、また前田さんが担当するの?」
前田「そうですね。この案件は指名なので、たぶん自分が担当します」
森「指名があったんだ?」
前田「対象者が女性の場合、女性の探偵を指名する依頼者も多いです」
男性からの依頼、つまり対象者が女性となる依頼も増えてきたこともあり、女性探偵の需要が増えている。尾行する対象者が女性の場合、探偵も女性のほうが警戒されにくい。男性よりは防衛本能が強い女性は、知らない男性がついてきていないか、反射的に確認するものである。夜間の住宅街を尾行する場合は、特にそうだろう。ときには、オートロックの入口を一緒に入らなければいけないこともある。女性探偵のほうが行動しやすい場面も多いのだ。
また、男性、女性に関係なく、異性のほうが視界に入りやすい傾向がある。前田も「あの人イケメンだなあと印象に残ったら、別の場所で会ってもすぐ気付きますよ」といっていた。同性よりも異性に目が行きがちなのは、誰でも同じだろう。「かっこいい人いないかな」「かわいい子いないかな」という心の声は、無意識に視線として表れているのかもしれない。
女性探偵が重宝される理由はそれだけではない。対象者が女性専用車両に乗った場合、男の探偵では手も足も出ない。男性が入りにくい場所を対象者(女性)が訪れることも多い。百貨店のショッピングモールなど、女性を対象にしたフロアで男性がウロウロしていると目立ってしまう。
森「女性ならではのつらさってある?」
前田「そうですね……。トイレですかね。男の人のように簡単にはというわけにはいかないので。ちょっと代わってもらって、コンビニに走ったりします。そのためにも、なるべく水分を取らないようにしています」
森「会社や同僚から女性として気遣ってもらうことはあるの?」
前田「いや、ないですね。生理休暇もないですし、つらくても気遣ってもらえません」
森「そのあたりは、女性探偵がもっと増えてきたら変わってくるんだろうね。他に女性ならではのことってある?」
前田「訪問でいやされることが多いです」
森「訪問っていうのは?」
前田「イチタイ(第一対象者)が浮気相手の家を直接訪れる場合、浮気相手であるニタイ(第二対象者)の顔がわからないですよね。もし家の中にいて外に出てこない、もしくはイチタイだけが出入りして、ニタイの動きがない場合があります。そういうとき、インターフォンを押して浮気相手が出てくるところを別の探偵が撮影するんです」
森「それでかなりの勇気がいるね」
前田「ホント、緊張します。自分、緊張しいなんで」
森「どういうふうに訪問するの?」
前田「よく使うのは、『(第一対象者の)ポストに入っている郵便物を抜いて、すみません、うちに郵便物が間違って入っていたんですけど、見てもらってもいいですか?』という方法です。後は、『ベランダに物が落ちてしまったんですが、取ってもらえないでしょうか?』というのもあります」
森「その場合、何かベランダに投げ入れるわけ?」
前田「そうですね。洗濯物が飛んでいったのを装って、服を投げ入れたりしますね」
森「かなり強引だね」
前田「だから緊張するんですよ。強引でも、面割り(対象者の顔を撮影すること)したいときってあるんです」
前田は、最近あった面白い依頼を教えてくれた。
企業からの依頼で、「辞めた人を悔しがらせてほしい」という一風変わった内容だった。優秀な社員がヘッドハンティングされて転職したのだが、そのことを後悔させてほしいのだという。
対象者が自宅から出てくると、家の前に変な五人が待ち構え、対象者を睨んでいる。電車に乗っているときは、その五人の探偵が、対象者に接近して、顔やスマホを覗いたり、あからさまに対象者の写真を撮ったりする。エレベーターに乗ったら、探偵たちも乗り込む。会社から出てきたら、やはりその五人が待ち構えていて、自宅まで陰湿についてくる」
完全に嫌がらせだ。しかも、子どものいたずらレベルである。ぎりぎり犯罪にならない程度の嫌がらせ、ということなのだろう。
このような嫌がらせを月曜日から金曜日まで続けた。対象者は、最初はまったく無警戒で、気付いてさえもいない様子だった。さすがに三日目を迎うごとに、怪しい連中の存在に気付き、水曜日には何度も後ろを振り返ったりするなど、警戒心を強めていった。しかしながら、対象者のほうから話しかけてくることも、通報することもなかったそうだ。
この仕事は普段と違い、探偵は姿を隠す必要がない。探偵にとっては、たまったストレスを発散できる痛快な仕事だった。「次はどんなことをしようか」と、探偵同士でアイディアを出し合ったという。前田も「こんなことしちゃっていいのかなって思いましたが、ものすごく楽しかったです!」と飛びきりの笑顔を見せてくれた。
依頼者である企業(対象者が勤めていた会社)は、それで満足したのだろうか。対象者は会社を裏切って、ライバル会社に転職したのだろう。社内の情報や顧客を持っているのかもしれない。
何かしらの理由があって、対象者に警告したかった可能性もある。無言の脅しとも含まれていないと、大金を使って探偵に依頼する理由が思い浮かばない。
まったくもって理不尽な嫌がらせに違いないが、腹の虫が治まらないだけだったのかもしれない。この世の中は醜い感情も動いている。もともとらしい理由など、後から何とでも付けられる。
対象者にとっては悔しいだろうが、聞いている者としては、思わず笑ってしまう話だった。どうでもいいことだが、この調査は経費で落ちるのだろうか。落ちるとしたら、勘定科目は何と記載するのだろうか。「雑費」にできるほど安い金額ではないだろう。
この話には後日談がある。
嫌がらせを受けた男性は、前田の探偵社に今度は依頼者として現れたのだ。依頼内容は、「勤めている会社の企業調査」である。要するに、今回の嫌がらせは新しく転職した会社によるものではないかと疑い、調査を依頼してきたのである。一連の嫌がらせが、前の会社からによるものだと、この男性は最後まで気付かなかったことになる。
森「そんな会社、辞めてよかったのかもしれないね」
前田「新しい会社を調査しても、何も不審なところはなかったので、対象者だけがいまだに『あれは何だったんだろう?』ってモヤモヤしながら暮らしているじゃないですかね」
森「モヤモヤしてるだろうね」
前田「間違いないと思います。それとは別の依頼ですが、自分ら探偵がモヤモヤしたままの案件もあります。失敗ではないんですが、不発といいますか、どうなっているのか理解できないような案件でした」
森「それはどういう依頼だったの?」
前田「対象者は男性で、奥さんからの素行調査です。対象者である旦那さんが週に二、三日しか家に帰ってこないみたいで、ほとんど外泊しているという状態でした」
森「それは浮気調査ではないの?」
前田「浮気調査も素行調査の一種なんです。外泊が多いだけでは浮気とは断定できないので、一応、素行調査ということで開始しました。勤務先の退社時から調査をスタートしたのですが、途中でタイ(第一対象者)の女性と接触して、その女性の家に入っていきました」
森「やっぱり浮気だったんだ」
前田「そうなんですが、そんな単純じゃなかったんですよ」
前田たち探偵は、第二対象者の家を終電近くまで張り込んでいたが、動きがなかったため、その日は解散して、翌早朝に張り込みを再開した。次の日の朝には出てくるだろうと待っていたが、出てこない。平日であったが、仕事は休みだったのだろう。
前の晩、前田はアジの開きと落ち葉を挟む仕掛けをしておいた。出入りを確認するためだ。翌朝確認すると、落ち葉は落ちていた。ドアを開けなければ落ちないように挟んでおいたので、誰かが出入りしたのは間違いない。その間に対象者が帰宅した可能性も否定できないが、依頼者に確認すると、自宅には戻っていないので、そのまま張り込みを継続した。
昼過ぎに動きがあった。第二対象者の家から女性が出てきたのだ。しかも、第一対象者ではない女性が出てきたのである。前田ら探偵の頭の中は〝はてな〟になる。「なんだ? こいつは?」と。
状況を整理すると、昨晩は対象者と第二対象者の二人きりではなかったということだ。夜中に出入りしたのは、この女性だったのかもしれない。「二人とも女性だから、不貞は不貞よね?」ということで、調査は続けられた。
それからしばらくすると、対象者と第二対象者が出てきて、パチンコに行ったり、コンビニに寄ったりなどして時間を潰していた。文字どおり、暇な時間をつぶすようにブラブラしていたのだった。「対象はいつ自宅に帰るんだ?」という疑問をよそに、対象者は一向に帰る気配を見せない。
今晩も第二対象者の家に泊まるつもりなのか、近所のスーパーで夕飯の買い出しを始めた。そこで、なんと昼間に出ていった謎の女性と合流したのである。しかも、その女性の彼氏と思われる男性も一緒だった。結局、対象者らは四人で第二対象者の家に戻っていったのである。
第二対象者の部屋は典型的なワンルームであることがわかっており、四人で過ごすには狭すぎる。前田の頭の中は混乱に陥っていた。「四人はどういう関係なんだろう?」「ニタイは何をしている人物なんだろう?」「そもそも、あの部屋は誰の部屋なんだろう?」……。
四人が一緒にいるという状況では、不貞が行われていたとしても、証拠能力は弱くなる。仲間で遊んでいただけだといわれれば、その反証ができないからだ。夜中のうちに誰かが帰るのではないかと、夜通し張り込んでみたが、その日は誰も出入りもなかった。
調査三日目――。その日も対象者は会社に出勤せず、第一対象者の部屋で過ごした。第二対象者の女性も仕事に出かけない。この女性は働いていないのかもしれない。その日も、前日と同じように一日をダラダラと過ごして終わった。対象者はその日も自宅には帰らず、第二対象者の部屋に戻っていった。
結局、そこで調査は打ち切りとなる。依頼者が諦めたのだ。これ以上調査費用はかけられない、という判断だった。
森「それはモヤモヤするね」
前田「もう少し調査すれば、何かがわかったかもしれませんが、真相は謎のままです」
森「対象者が部屋にいるとき、訪問はしなかったの?」
前田「ちょうどいい郵便物がなかったのでもありますし、相手の存在が謎だったので、訪問する理由が難しかったのもあります」
森「彼女の家かどうかも怪しいもんね」
前田「そうなんですよ。張り込み中にドアに耳をあてて室内の音を聞いたりもしました。何か聞こえなかったですけど……。あと、ドアのポストから覗いたりもしました」
森「そこまでするんだ。何か見えた?」
前田「靴があるのだけは見えました。ずっと観ているわけにもいかないので、何かチラシを入れて、チラッと覗く程度なので、よくわからなかったです」
森「この案件もそうだけど、他にも自発的に浮気をしている男女を見ていて、前田さんはどう思ったりするの?」
前田「そうですね……。自分、そういうのは何とも思わないです。自分の彼氏が浮気していたら、話は別ですけど」
森「今は彼氏は?」
前田「はい、います。パチンコ店で勤めていたときの同僚です」
森「どういう出会いだったか、聞いてもいい?」
前田「自分から声をかけました。顔が好みだったので……」
彼氏も酒好きだったこともあり、前田は飲みに誘ったそうだ。何度も飲んでいるうちに、彼氏彼女の関係になったそうだが、話はそれほど単純ではなかった。
当時の前田には彼氏がいたのである。前田の気持ちはすでに切れていたようだが、同棲していたこともあり、なかなか別れをいい出せずにいた。彼氏の家に住んでいたので、自分が出ていかなければならず、かといって身を寄せる場所もなかった。要するに、一時期二股をかけていたことになる。
最終的に、前田は元彼の家を出て、新しい彼氏の家に転がり込んだ。今も、そのまま一緒に暮らしている。
森「彼氏は探偵の仕事についてどう思っているの?」
前田「すごく理解してくれています。自分、仕事の話はあまりしないんですけど、長いと一日ぐらい帰れないじゃないですか。そういうときでも、家事とかしてくれています」
森「心配されたりは?」
前田「たぶん、そんなに心配はしていないはずです。睡眠不足だったりすると、『大丈夫?』って、身体の心配はしてくれますけど」
森「逆に、二、三日家を空けると、彼氏のことが心配にならない?」
前田「心配にならないですね。もし浮気していたら、すぐに気付くと思います」
森「さすが探偵だね。この仕事をしていて、そういう感覚は鋭くなった?」
前田「鋭くなりましたね」
前田はその彼氏との結婚も視野に入れているそうだが、彼氏にはまだその気がないらしい。探偵という特殊な職業上、恋人ができにくいと聞くが、前田は順調な交際を続けているようだった。一緒生活をしている安心感が互いの信頼に繋がっているのかもしれないが、それだけではないだろう。
同棲していながらその悩みや心配もあるのだ。なかなか家に帰ってこない、いつ帰ってくるかわからないというのは、予定も立てられないし、行動も制限されてしまう。早く帰ってくると言えば、夕食を一緒に食べたいし、外出しにくくなるだろう。にもかかわらず、予定が変わって相手の帰りが遅くなったら、その期待は不信や喧嘩の種に変貌する。小さな心の澱になり、二人の間に深い溝を生み出す可能性も秘めている。
一人で待ち続ける孤独は、想像してみると想像以上に心を蝕むものだ。人間の想像力というのは、良い想像だけでなく、悪い想像においても限りがない。負の無限ループが頭の中を這いずり回り、心の養分を吸い尽くしていく。耐えられない不安と寂しさを埋めるように、心ない誘いに身を委ねてしまう相手を責めることができるだろうか。
結婚していれば、その悩みや心配はより大きなものだろうし、子どもがいれば、また別の悩みも生まれる。男性探偵が不規則な偽りを持つ妻の苦労やストレスを計り知れない。探偵の取材を進めていくにつれ、探偵にとって結婚生活というのが鬼門なのだと感じていた。
時間的に不規則な職業は他にもたくさんあるが、仕事の始まりと終わりが定かではない職業は限られる。予定が立たない相手との生活は並行でしかない。期待が裏切られ続けるにつれ、最初から期待しないように防衛本能が働く。諦めの境地に達したとき、「なぜ結婚しているのだろう?」――という疑問が脳裏を占領しても不思議ではない。
今の時代では珍しくなりつつあるが、探偵業界は、まだ、そういう世界である。依頼者の要望、対象者の行動に左右される業務だけに、働き方改革が進みにくいのだ。プライベートを犠牲にして働くスタイルは、最近の若者には受け入れられにくいだろう。すぐに辞める人が多いのも頷ける。前田も今後の働き方について、思うことがあるようだ。
前田「まだ警察官になりたいというのは諦めていないですけど、探偵を続けるにしても、このままずっと同じようには働けないですよね」
森「やっぱりしんどい?」
前田「そうですね。休みが不規則なので、プライベートの予定が立てられないというのがネックですね。うちの会社はまだいいほうで、今後、固定休を作っていこうという動きがあるみたいですが、……。何曜日が休みってはっきり決まっていれば、また違ってくるのでしょうか……」
森「探偵を続けるとしたら、どういう探偵になりたい?」
前田「依頼者と直接関わる相談員という立場になりたいです。依頼者に寄り添いながら、一番近くで手助けをしたいです」
森「相談員にはどうやってなるの?」
前田「見習いとしての経験を積んだ先にあるのでしょうが、社内でも相談員だけの人は少ないですね。相談員兼調査員みたいな人は何人かいます。会社が大きくなっていけば、相談員も増えるので、まずは目先の調査を頑張るしかないですね」
困っている人を助けたい――。助けを求めている人に手を差し伸べたい――。
前田の根本にあるのは人助けの精神である。それは小学生の頃に受けた警察官の優しさに起因するといっていたが、生まれ持った気質がそれによって開花しただけであろう。多かれ少なかれ誰もが、人を助けたい、人の優しさや温かさに触れてきたはずだ。共感力の強い前田は、依頼者の気持ちに寄り添える、心優しい探偵なのだろう。
探偵というタフな仕事を何年も続けるためには、給与や勤務時間といった待遇面での改善だけでは難しいのかもしれない。前田のような正義感の強さ、人のためという奉仕の精神がないと、身が持たない職でもあるのだろう。生半可な気持ちで継続できる仕事ではないのだ。
森「探偵になって、何か変化したことある?」
前田「あんまり飲みに行かなくなりましたね。深酒すると、次の日しんどいですから。あとは、ちょっと太ってしまいました」
森「それはなんで?」
前田「不摂生な生活を続けているからですね。張り込みしているときも、どうしてもお菓子とかつまんでしまいます。変な時間にご飯を食べますし、コンビニ弁当ばかりなので」
森「今、何が食べたい?」
前田「焼き肉ですね」