第四章 ドリンクバー
2025年11月19日
探偵はここにいる
森 秀治
渋谷のスクランブル交差点
初めて東京に出てきたとき、有名な交差点の人の多さに驚いた。肩と肩が擦れちがう距離で、ぶつからないように器用に都会の雑踏を歩く身体能力にも驚いた。今は京都で暮らしているが、一〇年ほど前は東京に住んでいた。一度都会で慣れ親しんだ身体ではあるが、久しぶりの東京では思ったように動けない。押しくる人の波をふらふらしながら、鈍った身体に鞭打って前に進む。
日本で最も有名な交差点は、多い日で約四〇万人もの人が往来する。国の書留で約一五〇〇人、四七秒という短い時間の間に、千人以上もの人が行き交うのだ。渋谷のスクランブル交差点ですれ違う人は、当然ながら赤の他人で知らないわけだけで、その人には生活があり、人生がある。希望、悩み、欲望、後悔など、さまざまな感情を抱えて生きているはずだ。
そんなことを考えながら、スクランブル交差点を通り過ぎて道玄坂のほうへと向かう。SHIBUYA109を左にみ、右に見えるユニクロを通り過ぎたところの三階にロイヤルホストがある。
夕方の五時前、ロイヤルホストに入店すると、まだ夕食前の時間にもかかわらず、窓際の席は若いカップルで満席だった。若者の間で流行が一九九〇年代勝るとも劣らないほどの勢いでいるのか、眼鏡の奥の彫りの深い顔をさせて、メニューを開く。昼食が遅かったため空腹ではないはずなのに、メニューを見てると、節操なく腹の虫がざわめき始めた。軽くハンバーグでも食べようかと思いながら、待ち合わせの相手から到着の電話がかかってきた。奥の席にいることを伝え、手を振って互いを認識する。笑顔でこちらに向かってきたのは、一六五センチくらいの背丈で細身の、まだ大学生のような男の子だった。
彼の名は、浦川拓だ。ジャニーズ事務所にいても不思議ではないほどの爽やかイケメンで、反射的に「なんで探偵をしているんだろう」という疑問が浮かぶ。
簡単に挨拶を済ませると、浦川は「ご飯食べてもいいですか? 朝から何も食べていなくて」と、二五〇グラムのハンバーグと大盛りのごはんを頼む。ごはんは大盛りでも無料だ。私は午後二時に昼食を済ませた自分を恥ずかしくなり、腹の虫を黙らせることにした。互いにドリンクバーを頼み、浦川はオレンジジュース、私はホットコーヒーを取ってきて、再び向かい合った。
森「今日は仕事だったの?」
浦川(以下、浦)「そうです。朝からずっと張り込みでした」
森「ちなみに、どんな依頼?」
浦「詳しい依頼内容は聞かされていないのですが、別居してる対象者が誰と住んでいるかの調査だと思います。その家をずっと張っていたんですけど、まだ誰も出てこなくて、僕だけ先に帰ってきたんです。取材だったので」
森「ご、ごめんね……。張り込みは、朝からずっと?」
浦「はい。朝五時半からですね」
朝五時半からということは、二時間近く張り込んでいたことになる。浦川は途中で抜けたいということだが、他の探偵はまだ張り込んでいるのだろう。
朝から何も食べていないって、いつもそんな感じなの?
浦「あ、何もってわけではないです。簡単なサンドイッチとかは食べました」
森「ちゃんとした食事は、ってこと?」
浦「そうです、そんな感じです」
森「なるほど。ちなみに依頼内容って、あまり聞かされない?」
浦「そうですね、毎日いろいろな案件に関わりますから、いわれたことをこなしてる感じですね。午前中にある現場に行って、午後は別の現場に行くこともありますし。調査書である程度は把握していますが、詳しいことは僕のところまで降りてこないですね」
浦川が所属している探偵社では、相談員と調査員の役割が明確に分担されているそうだ。他の探偵社によっては、ひとりの探偵が相談から調査まで全てをこなすこともあり、その探偵社の方針によって、多くの探偵社で分業化されているのかもしれない。
依頼者と直接やり取りをするのは相談員の仕事だ。依頼内容から調査報告、アフターケアまで依頼者に寄り添った対応を行う。一方、調査を行う探偵は、依頼者と接することがない。他の章でも述べたが、依頼者や対象者に対して過剰な感情移入をさせないためだ。さらに踏み込んで聞こうとしたところで、店員が料理を運んできた。店員は機械的にソースの説明などをして、ロボットのような動きで隣の席の皿やコップを片付け始めた。
浦「食べながらでもいいですか?」
森「もちろん」
それにしても、浦川はおいしそうに食べる。細い身体からは想像できないほど、次から次へと食べ物が口の中に運ばれていく。よほど腹が空いていたのだろう。久しぶりの食事の邪魔をするのも悪いと思い、取材を中断することにした。私はコーヒーのお代わりに立ち上がり、浦川のドリンクも一緒に取ってくる。
どこから見ても今どきの若者だが、実は探偵なのである。鋭い眼光をしているわけではなく、職人気質の探偵オタクでもない。見た目だけで判断して申し訳ないが、喧嘩が強そうでもなければ、頭が切れる雰囲気でもない。体育会系でもなければ、文学系でもない。リーダー体質でもなければ、孤独を愛するタイプでもなさそうだ。何かに飢えているようにも見えないし、夢や希望に胸を膨らませているようにも見えない。険しいものもなく、きれいなものを一切感じさせない。何でも要領よくこなし、友だちと楽しく遊んでいそうな、今どきの若者である。
コーヒーを飲みながら、そういったことを考えていると、浦川のハンバーグはあっという間になくなっていた。気持ちいいほどの食べっぷりだ。頃合いを見て話しかける。
森「いつもそんなに急いで食べるの?」
浦「え? そうですね。お腹が空いていたもので……。でもまあ、早食いのほうかもしれないですけど……。みんなそんなもんじゃないですか?」
探偵という職業柄、早食いが多いのかもしれない。張り込みや尾行など、目を離せない状況で、食事にありつく暇もないのだろう。食べられるときに食べておこうと思えば、自然と早くなる。それが習慣になっているようだった。
森「浦川くんは今いくつ?」
浦「二三です」
森「探偵になってどのくらい?」
浦「四カ月くらいです」
森「なんで探偵になったの?」
唐突ではあるが、これを聞かないことには先に進めない。
浦「えーと……。普通に就職サイトで見つけたんですよ」
森「……」
浦「面白そうだなと思って、ちょっと受けてみようかなって軽い気持ちで受けて、入社したという感じです」
森「怖くなかった?」
浦「ちょっと怖かったですね。正直、胡散臭かったですよ。その頃、大学を中退して、二カ月ほどフリーターをしながら、グダグダしていたのもあります。」
森「大学、中退したんだ?」
浦「はい。四回生のとき、家庭の事情でほとんど学校に行けなくて、単位が足らなくなってしまって……。普通に就職するのもどうかなって。面白そうな仕事、なんか強みになる仕事がいいなあって探していたんです」
森「家庭の事情って、どういうの? 話せる範囲でいいんだけど」
浦「簡単な話で、借金です。親の借金が大変になって、バイトをして家にお金を入れないといけなくなっちゃったんです」
見た目だけでは決してわからないものだ。あっけらかんとした浦川にも、さまざまな苦しみや悲しみがある。ポジティブな感情だけで生きていける人間など存在しない。ときには、自分の力ではどうにもならない出来事も起きる。人の人生をあっという間にのみ込む天災、あらゆる人間活動を遮断してしまうウイルスの発生、「なんで自分が」といいたくなるような事故や病気……。そういった避けることのできない暴力がいつ自分の身に降りかかってくるのか、誰にもわからない。
浦川拓は、一九九六年に埼玉県で生まれた。子どもの頃から友人に恵まれ、脇道にそれることもなくまっすぐに育った。両親と二歳違いの妹の四人家族である。
中学生のときは、バスケットボール部に所属。背が低かったため、ガードと呼ばれるボールを運ぶポジションだった。作戦を考えて味方選手を動かし、試合をコントロールする重要なポジションである。本人曰く、弱小チームだったそうで、地区大会の二回戦、三回戦で敗退したそうだ。どちらで敗れたのか、はっきりと思い出せない。バスケ部に入部したきっかけは、「めちゃくちゃ背が低かったので。身長が伸びたらいな」という軽い動機だった。勉強のほうは可もなく不可もなくな理科や社会は好きだったが、数学は苦手だった。親に対する反抗期は少しはあったものの、親しい友人たちと充実した三年間を過ごした。
高校では、バスケットボールはスッパリと辞めて、何か新しいことをしようと決めていた。しかし、何がしたいのかわからないまま高校生になった。たまたま同じクラスの前の席の子と親しくなり、誘われるままに軽音部に入部した。その友人はベースをしていて、部員を集めていたのだった。楽器の経験はなかったが、持ち前の器用さでギターとベースをこなした。バンドメンバーの好きなジャンルがバラバラだったため、みんなの間を取って邦楽ロックのコピーを演奏していた。浦川自身は、本当はアニソンをやりたかった。
中学時代までは多くの友人に囲まれていたが、高校時代は狭いコミュニティーの中で生きていた。理由は、軽音部が狭い世界で居心地が良かったのだ。数には関係なく、高校でも友人に恵まれていた。
熱心に受験勉強をしなかったため、希望する大学には入れず、すべり止めの大学に現役で入学。将来の夢や目標は見つかっていなかった。大学に進学したのは、将来のことを考える時間がほしかったからでもある。
それにしてもプログラマーとして働いている高校時代の友人がいた。一人でプログラムを書いてスマホのアプリを作っている彼を、浦川は羨ましく見ていた。手に職をつければ、どこでも生きていけると感じたが、高三でその道に進む勇気はなかった。一生のことなので、大学でゆっくり考えたかったのだ。経営学部を選んだのも、その後の選択肢の幅が広いためだ。
大学ではサバイバルゲームのサークルを立ち上げた。仲良くなった友人がミリタリーオタクだったのだ。
「ミリオンの友だちに誘われて、サバゲーのイベントに連れていってもらったら、かっこよくって。一回やったら、ハマっちゃいました」
仲のいい友人四人でサークルを立ち上げ、三年後には一〇人ほどまでにメンバーが増えた。エアガンを使用するので、普通の公園でのサバイバルゲームは禁止されている。貸し出されているフィールド(千葉県に多いようだ)に出かける必要があるため、活動は基本的に土日中心になる。また、他の大学のサークルと試合をしたり、サバイバルゲームのイベントに参加したりもした。
サークル内ばかりで遊んでいたわけではなく、気が合わなかったのか、付き合っている彼女はいた。実家近くの大学に通っている子で、居酒屋で知り合った。
「半年酔った勢いで声をかけたんです」
サバゲーである。その彼女とは、大学四年生のときに別れたそうだ。親の借金が大変になり、ほとんど大学に行けなかった時期である。
浦川が小学校二年生のとき、父親は飲食店を始めた。開業のために融資を受け、借金を背負った。オープンな家庭だったこともあり、小さい頃から家に借金があることは知らされていた。飲食店の売上はそれほど多くなく、定期的に運転資金を借り続け、利子を返すだけでも大変な状況に陥った。
現状を変えるためには、ある程度まとまった金が必要となり、浦川は大学に行かずにアルバイト中心の生活を余儀なくされた。昼間はコンビニ、夜は居酒屋というアルバイトを掛け持つ生活が続く。常勤のバイトが入っていない日は、引っ越し作業など日の雇いにも精を出した。彼女との距離も自然と遠くなっていった。
その頃の気持ちを聞いてみると、熱を感じさせない言葉が返ってきた。
「ましょうがないなって感じでした。そんなに重く受け止めていなかったですね」
浦川は大学を退学することにした。単位が足りなくなったのもあるが、大学の授業料をもう一年払う余裕がなかったからでもある。結局、浦川の大学生活はサバイバルゲームとアルバイトで終わり、今後の人生について考える時間はなかった。
森「大学は卒業したかった?」
浦「それはそうですね。でもまあ、それも含めて仕方がないですね。その分、他の人にはない強みを見つけようという気持ちが強くなったのはあります」
森「今は付き合っている子はいないの?」
浦「いないですね」
森「やっぱり恋人ができにくい仕事なのかな?」
浦「いやあ、うまいことやっている人はいるんですよ。僕はまだこの生活に慣れていないだけで、慣れている人だと、結婚して家庭を持っている人もいますし」
森「友だちの影響は受けるほう?」
浦「それはあるかも、ですね。ふらふらしているところを誰かに引っ張ってもらえるとラクだなぁ、とは思ってました」
浦川は、友人から誘われて何かを始めることが多い。バスケットボールを始めたのは、少しでも身長が伸びたらいいなという期待からだったが、「友だちと一緒に入ったのだったかな……」とも言っていた。新しいことに挑戦したい気持ちがあっても、その〝何か〟を見つけられずにいた。
刺激を求めているようでもある。しかもリアルな刺激だ。バスケットボールからバンドに移り、大学ではサバイバルゲームにのめり込んでいった。そして、探偵という職業。より強い刺激を求めているようにも見える。今の世の中は、リアルな刺激が少ない社会でもある。欲は尽きないが、最低限の生活は生まれたときから確保されている。浦川の家庭は借金を抱えていて裕福ではなかったが、それでも子どもの頃から食べ物に困ったことはない。普通に学校に行って、部活をし、高校生としては高価な楽器も買えた。
今はゲームやネットの世界でしか激しい刺激を味わえない。画面上で敵を殺したり、危険な冒険をしたりすることは、ゲームの中だけの出来事である。ネットで探せば、ありとあらゆる疑似体験ができるし、面白動画も溢れている。でも、それは本人にとってはバーチャルな刺激である。現実の世界でリアルな刺激を求めたくなるのは自然なことかもしれない。
森「初仕事って、覚えてる?」
浦「上野で張り込みだったはずです。上野駅の近くにある居酒屋で、対象者が出てくるのを待っていました」
森「それも浮気調査?」
浦「そうですね。その居酒屋で対象者たちが会っていて、路上で四、五時間くらい立っていましたね」
森「ずっと立ってたの?」
浦「そうです。何もわからない状態だったんで、こんなに待つ仕事なんだって驚きました」
森「結局、どうなったの?」
浦「実は、途中で帰ったんですよね。会社の規則で、研修中は終電までには帰らないといけないというのがあって。後から聞いた話によると、空振りだったみたいです。ワクワクしていたんですが、何もなくて終わってしまって、ちょっと残念だった記憶があります」
森「残念だった?」
浦「そうですね。何かが起きるような予感があったんだと思います」
森「何かが起きてほしかった?」
浦「期待していたんでしょうね。たぶん……」
森「これまで面白い事件とかあった?」
浦「最近の話ですが、面白かったというか、びっくりした案件がありましたね」
東京ディズニーランド(および東京ディズニーシー)では、大晦日に特別なイベント「ニューイヤーズ・イヴ」が開催される。大晦日の午後八時から元旦の午前六時までのイベントで、特別なパレードが行われ、年越し花火も打ち上がる。このイベントに対象者が参加していた。一緒にいたのは、家族ではなく浮気相手である。
依頼者は三〇代前半の女性で、夫の浮気を調査してほしいという依頼だった。「ニューイヤーズ・イヴ」に参加するためには、競争率の高いチケットが必要になる。浦川らはチケットが取れず、駐車場に止めた車の中で待機し続けていた。
長い待ち時間を持て余していた浦川探偵は、この後の展開について互いに予想し合った。朝六時まで出てこないのか、メインイベントの打ち上げ花火が終わったら帰るのか、そのまま帰るのか、それともホテルに寄るのか。ホテルに行くなら、どの辺のホテルに行くのか。舞浜近くのホテルだろうか。いや、女性の家の近くにあるホテルに行って、朝方送ってから家に帰るのではないか。
新しい年が明けようとしている駐車場で、対象者の車近くで張り込んでいる探偵らは、紅白歌合戦を見ながら年越しそばを食べるのではなく、そんな想像を語り合っていた。探偵に恋人ができにくい理由、結婚生活がうまくいきにくい理由は、こういったところにもある。クリスマスや正月、バレンタインデーといった恋人たちや家族のイベントは、不倫調査の繁忙期でもあるのだ。
今回の案件は相手の女性が既婚者で、ダブル不倫であることがわかっていた。大晦日と正月という特別な日に家族を放って密会しているのだから、すでに開き直っているのかもしれない。
二人は朝四時過ぎにディズニーランドから出てきた。浦川はいつでも追跡できるように車をスタンバイ。ところが、対象者たちの車は一向に動き出さない。しばらくすると、対象者たちの車が不自然に揺れ始めた。
車の中では始まってしまったのである。浦川らは、証拠を取るために、対象者の車に近づく。しかし、後部座席はスモークガラスで見えない。フロントガラスもカーテンのような布で覆い隠されていた。決定的な証拠は取れなかったが、車が揺れているところは動画で押さえた。
森「探偵の仕事は面白い?」
浦「面白いですね。基本的に耐えることが多いですし、苦しい時間も長いですが、急に興奮したりするんですよ。そういう瞬間は忘れられないです」
森「興奮するんだ?」
浦「そうですね。仕事が完璧にうまくいったときは興奮しますね。対象者がホテルに入って出る。その入りと出を動画で完璧に撮影できたときは、興奮します」
森「そっちの興奮なんだ。追っていた対象者がついに尻尾を出したという興奮ではないんだね」
浦「う〜ん……。どうなんでしょう? それも興奮しますが、その二つの違いは僕にはないですね」
森「同じってこと?」
浦「人の欲望を覗き見する興奮もありますけど、それは仕事と一体になっていることですから」
森「人間不信になったりはしない?」
浦「ならないですね。『面白い人もいるなあ』とか『ああ、やっちゃった』というのはありますけど」
森「感情移入することは?」
浦「ちょっとあります。『家庭での立場が弱くて、不倫に逃げちゃったのかなあ』と想像したりはします。そういう気持ちもわかりますが、ダメなものはダメですからね。こっちは仕事でさせてもらだけですし。どちらかというと、本を読んでいる感覚に近いですね」
覗き見したときの興奮と仕事がうまくいったときの達成感が同じ、ということがうまく理解できなかった。対象者の尻尾をつかんだときの快感は、あくまでもノルマを達成したような感覚なのかもしれない。対象者の尻尾をつかむことは、小説やスクリーンの中のフィクションの世界に近い感覚だと思っていた。本を読んでいる感覚ということは、あっても、自分とは違う世界の出来事として割り切っているのである。感情が揺さぶられることはあっても、後から振り返ると、そこまで深刻な感情ではなかった、ということなのだろうか。ビジネスライクな関係なのかなとも思ったが、そう単純でもなさそうだ。
浦「そういえば、人探しの依頼で、対象者を探し出したときは鳥肌が立ちましたね。人探しって、あんまり依頼できないと聞いていたので、見つけたときは興奮しました」
「家出した息子を探してほしい」という両親からの依頼だった。家出した息子とは、二七歳の社会人経験もある男性である(当時求職中だった)。
家出の原因は、借金。対象者は、消費者金融から多額の借金をしており、父親のクレジットカードも無断で使用していた。すべての借金を家族に押し付けるようにして家を出たのである。家庭内夜逃げみたいなものである。
対象者である息子の金遣いが荒くなったのは、キャバクラに通い始めたことが原因だった。依頼者である両親によると、前職を辞めた後から夜に出かけることが多くなったそうだ。友人と飲んでくる、といっては、酔いつぶれて帰ってくることもあった。毎日のように出かけるのだが、これまで夜中に出歩くことは少なかったし、それほど友人が多いタイプでもない。心配ではあっても、成人している大人である。何度か声はかけたが、強く問い詰めるようなことはしなかった。
キャバクラ通いが発覚したのは、クレジットカードの明細書からである。父親と息子は、明細書を前に怒鳴り合いになった。父親が怒る理由は明確だが、息子が言い返す根拠は何一つない。いたたまれなくなったのか、結局、息子は逃げるように家を出ていった。しかも、父親名義の携帯電話(家族共有で使用していた)とクレジットカードを持って。
後日、消費者金融からの督促状が届いたことで、息子の借金が明るみに出た。
息子が持っていった携帯電話に何度もかけたが、息子が出ることはなく、そのうち電源が切られてしまった。両親は、息子が自殺を考えているのではないかと心配して、探偵に依頼してきたのである。
浦川ら探偵は両親の協力を得て、契約している電話会社に携帯電話の捜索を依頼した。名義者であれば、携帯電話の位置情報を教えてくれるのだ。電源が入っていない場合は、過去の位置情報を教えてくれる。ただし、どの基地局で反応があるかしかわからず、半径数百メートルくらいの範囲のどこかにいる、という曖昧な情報しか得られない。捜索の結果、横浜の住宅街にいることがわかったが、運が悪いことに四つの基地局が重なり合っている地域だったため、詳細な場所まで絞り込むことはできなかった。
探偵もちは、六人でチームを組み、対象者が利用する可能性がある駅で張り込みを開始。四カ所に分かれて駅を利用する人を六人で目で追った。通りすがりの人の顔を追う作業(面取り)は、思ったよりも重労働である。会社の出入り口で張り込むのと、四方八方からひっきりなしに往来する多種多様な人を観察するのとでは、まったく違う作業である。三〇分もしないうちに、目と脳が疲れてしまう。集中力も続かないので、浦川と先輩と頻繁に交代しながら面取り作業を行った。
何の結果もなく初日の調査を終了。その後、駅前での張り込みだけではなく、範囲内にあるコンビニなどで張り込みの聞き込み調査を行った。熱を上げていたと思われる女性に聞き込みを行ったが、手応えのある回答は得られなかった。
対象者が通っていたキャバクラにも聞き込み調査を行った。熱を上げていたと思われる女性に話を聞くことができたが、彼女は「最近は連絡もないですね」と、さほど興味がなさそうに答えただけで、有力な情報は得られなかった。
対象者は、前職を辞めたとき、気分転換、好奇心でキャバクラに行ってみたのだろう。女性との恋愛経験がほとんどなかったこともあり、一人の女性にのめり込んでしまった。女性に優しくされ、舞い上がってしまったのかもしれない。女性にとっては、客の一人でしかなかったが、純な対象者は親密な関係と勘違いした。多額の借金までして、足繁くキャバクラに通い、その女性を億劫に感じるほど惚れたのは間違いない。
調査期間は、最初から二週間と決められていた。今回の人探しは不発で終わるのかと思われた調査最終日、事態は急展開を迎える。
立ち寄る可能性が最も高そうなコンビニで張り込んでいると、それらしき人物が現れたのである。「ああ、あれじゃないですか」。と先輩に伝え、写真を撮った。その画像を依頼者に送り、対象者の確認も取ろう。その間も、浦川らは対象者をしっかり人込みを追う。依頼者からの「息子で間違いありません」という返事を得ると、浦川の体内でアドレナリンが一気に溢れ出した。
「もうびっくりしました。無駄骨に終わると、覚悟していたことから」
尾行を続けて、住まいを確認。対象者は小さくて古いアパートに入っていった。作業服を着ていた。何かしらの仕事をしているのだろう。やはり、女の影は感じられなかった。
浦川の仕事は、生存確認をして住所を特定する「宅割り」まで。その後どうなったかはわからない。想像でしかないが、一時的に女性にのぼせ上がったけれど、返せないほどの借金を抱えて冷静になったのか、父親のカードを無断で使用した罪悪感に苛まれたのか、相手から拒絶されて我に返ったのか、もう一度働き始めたようである。もともと真面目なタイプなのだろう。少しずつでも親に返済していくつもりだったのかもしれない。実家のある東京から、逃げた横浜までの距離からも、そう考えるのが自然だろう。
本人にも家族にも大きな痛手ではあったが、一人の男性が大人になるために必要な経験だったように思えてならない。依頼者から渡されていた写真の対象者は、心配になるほど純粋な顔をしていた。社会の悪意、闇、嘘や汚いといった負の部分に一切触れてこなかったような表情だった。
しかし、コンビニで見つけた対象者の顔つきは明らかに違っていた。「目つきが鋭く、男っぽくなった」という浦川の言葉からも、その変化の様子が窺える。
失敗や間違いは誰にでもある。我を忘れるほど人を好きになることもある。当の本人にとっては地獄のような時間だったかもしれない。それでも、後から振り返ると、貴重な時間だったと感じるのではないだろうか。そのときに戻りたくもなければ、同じことをしたいとも思わないが、あの濃密な時間はほろ苦い思い出として胸に深く刻まれるだろう。
すべてを投げ捨ててしまう過剰さも、たった一つの情動に支配される危うさも、若者の特権だ。親や友人、他人に迷惑をかけることはあるだろうが、みな、お互い様である。大事なのは、そこから立ち上がれるかどうかではないだろうか。
家出をした対象者はきっと前を向いていくように思われた。多額の借金をしてしまったし、両親には恥ずかしい思いをさせてしまった。最愛の人にも裏切られた(と本人は思ったはずだ)。自宅に戻りずらい土壌もあるし、本人が生まれ持った力強い種もある。一度くらいしおれても、また力強く成長してくれるだろう。
浦川も借金の返済に苦しんだ経験がある。自分の借金ではないだけに、この対象者よりも理不尽に感じていたのではないだろうか。そんな素振りを一切見せないが、つらかった過去の日々を乗り越えて、今の浦川がいるのだ。だからこそ、浦川にとって今回の案件が印象に残っているのではないだろうか。
森「他に印象深かった案件ってある?」
浦「そうですね……。とても不思議な依頼がありました。手紙を渡してほしい、という依頼です」
森「手紙?」
浦「そうです。普通に郵便で出せばいいんじゃないか、と思ったんですが、相手の住所がわからないので、探偵に依頼してきたみたいです」
森「どういう依頼者だったの?」
浦「三〇代前半の女性でしたね。手紙を渡したい相手というのが、元彼の今の奥さんなんです」
森「それは、ちょっと怖いね」
浦「ですよね。依頼者から手紙を預かって、元彼の奥さんに渡すわけですが、何が書かれているのか、何が入っているのか、想像するだけでも恐ろしいですよね」
森「中身は知らなかったの?」
浦「僕は教えてもらえなかったですね。さすがに上の人はチェックしているはずですが……。だって、脅迫文だったりしたら、犯罪に加担したことになりますから」
森「それでも気になるね」
浦「元彼は現在、名古屋の鳥居商事で先生をしていることはわかっていたんです。それで、車で名古屋まで行ったんですが、ずっと手紙の内容が気になって気になって……」
森「どんな内容だと思ったの?」
浦「一緒に行った先輩もあれこれ話していたんですが、どっちだと考えても恐怖でしかないんですよね」
浦「どっちも考えてる?
森「どっちも考えてる。良いように考えたら、彼はこんなところもあるけど、優しくていい人です。絶対に幸せにあげてください、といった内容ではないか、と」
森「それは怖いね。悪いように考えたら?」
浦「うん、犯罪にならない程度に彼の悪口ばかり書かれているパターンではないか、と想像しました。さすがに『こんな男とは別れたほうがいい』というのは脅迫に近いですからね。あとは、二人の秘密を暴露する系ですかね。リベンジポルノみたいな」
森「恐ろしい……。その依頼者は結婚しているの?」
浦「いや、独身なんですよ」
森「悪いようにしか想像できないね。それで、結局どうなった?」
浦「元彼が働いている高校で、朝から夜まで張り込んでいたんですが、なぜかその日は来なかったんです」
森「夏休みとか?」
浦「いえ、平日です。普通に授業が行われているようでしたので、創立記念日とかでもないはずです。何かあったんでしょうね。風邪だったのか、研修があったのか、たまたま休みだったのか」
森「家はわかる?」
浦「そうなんですよ。結局、手紙は渡すことができず、また名古屋から東京まで持ち帰りました。だから、手紙の内容はわからないままです。いまだにモヤモヤしますね」
森「聞いているだけでモヤモヤしちゃったよ」
浦「不思議な依頼もあるんですよね」
森「ちょっとドリンクを入れてきてもいいですか?」といって、浦川はドリンクバーに向かった。私もコーヒーを入れに立つ。浦川はドリンクバーの前で少しだけ思案して、コカ・コーラとカルピスを半分ずつ入れ始めた。
「それって、おいしいの?」と聞くと、浦川は「初めてなんで、どうですかねえ?」といいながら、一口飲む。「うん、まあまあおいしいですね」と屈託のない表情でいった。カルピスソーダもあるのに、あえてカルピスをコカ・コーラで割っていた。
そのときに変な飲み方をするなあと思っていたのだが、後で調べてみると、かつてカルピスの原液をコカ・コーラで割って飲む「キューピット」という飲み物があったようだ。一九七〇年代に大阪の喫茶店で流行ったようで、今でもメニューとして残っているところもあるという。あ試にウェブで検索してみると、カルピス・コーラという名称のレシピもたくさん出てきた。ある界隈では人気があるようだ。ものは試しということで、自宅で「キューピット」「カルピスコーラ」なるものを作ってみた。カルピスの原液にコーラを入れるだけ。本場のキューピットは輪切りにしたレモンを入れるそうだが、そういう細かいことは気にしない。スプーンでかき混ぜてグイッと飲んでみると、確かにおいしい。表現が難しいのだが、甘ったるい駄菓子のようなコーラだ(さっぱり伝わらないだろうが)。病みつきになる人も多いそうで、ミルクを加えてミルクセーキ風にするレシピもある。
その甘ったるいカルピス・コーラを飲みながら、浦川は失敗談を語ってくれた。
浦川はレンズ越しに対象者と目が合った。
レストランから出てきた対象者が浦川に近づいてくる。「バレた」と気付くのがわずかに遅れた。浦川は急いで逃げた。相手は「なんだアイツ!」撮影していたぞ!」と大きな声を上げるだけで、追いかけてくることはなかった。捕まってカメラを壊されるような事態になれば、大失態だ。経験を積むと、その人がどこを見ているのかがわかるようになるそうだ。遠くを見ているのか、ただ前を見ているのか、一点を集中して見ているのか、視線の区別ができるようになる。
「こっちのほうを見ていても、自分のことを見ているとは限らないですよね。視界の中に入っているだけで、対象者が思っていた方向と違う方向を向いていることもあります。でも、そのときは明らかに目が合いました」
中でも〝勘〟が最も警戒するべきものであり、油断ならない。ぼんやり見ていたり、別のものを見ていたりする場合、その視線はまったく違う。僕のことを疑っているときは、鋭いというか目力を感じるとか、説明しにくいのですが、まっすぐこちらを見ているんです」
当時の浦川は、その視線の違いがわかっていなかった。最初のうちは、視界に入っているだけで、「僕のことを見ているんじゃないか?」とドキマギしていた。しかし、対象者が思ったほうと自分を見ていないことに慣れると、今度は対象者の視線に鈍感になってくる。「どうせ見ていないだろう」と大胆になってくるのだ。慣れると警戒心が緩くなるのは、探偵に限らず、すべての人間にいえることかもしれない。油断大敵である。
自分を見ているのに、気付かない。もしくは、気付くのが遅い。一瞬で気付けば、すぐに対応できる。目線を外したり、スマホを見たりして、ごまかすことも可能だ。普通に道を歩いていても他人と目が合うことはある。でも、ずっと見られていることはまずない。ちょっと目が合ったくらいなら、こちらの正体は発覚せずに済む。
ホテルから出てくる場面は、調査でいえば大詰めである。そこで失敗してしまったら、どうするのだろうか。
「対象者に完全にバレてしまったら、もう自分たちで胸になるしかないですね」
浦川の探偵社は、調査の際は最低でも二人で動く。一人が尾行に気付かれた場合、気付かれた探偵が消えて、もう一人の探偵が追い続けられる状況を作るのだ。対象者たちが食事を終え、レストランから出てきたところで、あいつ、店に入る前にもいたような気がする……」と疑われたら、対象者たちはまっすぐにホテルには向かわなくなる。だからといって、「今日はやめておこう」ともならない。ほとんどの人は、疑わしい人物を撒こうとする。怪しい人物がいなくなれば、安心して次の行動に移すことができる。不貞の証拠を取るためには、気付かれたほうは捨て駒となって、もう一人の探偵のフォローに徹するのが最善策なのだ。
今回の対象者も同じで、浦川の姿が見えなくなったことで、案の定、途端に走った。一度燃え上がった情熱は、そう簡単に鎮火しない。「ひょっとしたら、嫁が調査を依頼したのかも」という疑いが頭の片隅に浮かぶかもしれないが、「そんなわけないだろう」と楽観的に考えるのか、「どうせバレているなら、もういいや」と開き直るのか、どちらにしても問題なく事を済ませてしまう、対象者の多くは目の前の情欲に溺れてしまう。
これは、浮気をしている人の習性かもしれない。浮気は、発覚するかもしれないというリスクと常に背中合わせの状態だ。「いつかバレるかもしれない」と思いながらも背徳行為に身を投じるのだから、より情欲に流れやすいのではないだろうか。
探偵同士は、連携して行動するために、調査中は連絡を取り合っている。特に大事な場面では、携帯電話を通話状態にしておき、イヤホンマイクで会話することも多い。「自分、今、たぶん見られました。かなり警戒されているんで消えます。最後のところだけよろしくお願いします」といったやり取りをする。
ピンチの状況下で、どういう対応を取れるのか――。そこで探偵としての資質が問われる。修羅場になったり、失敗したとしても、冷静に次の判断ができるかどうか。浦川も、そういう先輩に憧れている。
「切羽詰まると、頭が混乱してしまいます。平然とした顔で、正確に一番近い行動ができる人はすごいですよね」
尾行していた対象者を見失ったら、普通は「どうしよう……。どっちに行った?」とあたふたしてしまう。対象者を見失うのは、探偵にとって致命的なミスなのだ。ただ、失敗したことはどうしようもない。大事なのは、いかにリカバリーできるか、である。
浦川の尊敬する先輩は、たとえ見失っても、「走っていなかったから、きっとこっちに行ったんじゃない?」、「後ろ姿が見えないということは、この道を曲がったんじゃない?」と冷静に判断して、最も可能性の高い選択ができるそうだ。ある程度、対象者の行動を予測しているのだ。さらに「対象者がこうしたら、ああしよう」というふうに、常に先回りして、次の行動をシミュレーションしている。だから、見失ったとしても素早く対応できるのである。
「浮気相手の居住地近くで、対象者が急にいなくなったことがあるんです。僕は焦っていたんですが、その先輩はマンションのベランダ側に回り込んでいて、部屋に入るところを撮影していました。このマンションかもしれないって予測していたんでしょうね」
浦川は、また立ち上がってドリンクバーに向かった。カルピス・コーラは、喉が乾くのかもしれない。話していて、ただ喉が乾いただけかもしれないが。
私は、浦川の後ろ姿を見ながら、リカバリーについて考えていた。リカバリーさえできれば、ミスはミスではなくなる。探偵の仕事も、その場でリカバリーしなければいけないが、他の仕事、いや仕事だけでなくプライベートでも、ミスはいつでもリカバリー可能なのかもしれない。リカバリーできれば、過去の失敗はただの笑い話になる。「終わりよければすべてよし」というのは、リカバリーがうまくいった結果なのだろう。
そんなことを考えていると、今度は深緑色をした液体を持って、浦川は戻ってきた。それはいったい何なのかと聞くと、「メロンソーダと野菜ジュースを混ぜてみたんです」と笑顔で返し、ちょっと微笑ましそうな顔で飲んでいた。
森「これからも探偵、続けていくの?」
浦「どうなんでしょうね。う~ん……、まだ探偵になって四カ月しか経っていないのでなんともいえないですが、ずっとは難しいんじゃないかな……と感じています」
森「どうして?」
浦「無理して続けていくことはできるでしょうけど、体力的に厳しくなるんじゃないかな、と」
森「やっぱりしんどい?」
浦「しんどいんですね。今はまだ若いので二、三日徹夜しても平気ですが、年上の先輩を見ていると、ずいぶん身体にきているようですし、実際に『しんどい』っていっていますしね。だから、もし続けるのであれば、独立して自分の探偵社を持って、依頼者の相談を受ける道になるんだと思います」
森「それはそれで、精神的にきついかもね」
浦「そうかもしれないですけど、興味はあります」
探偵になって四カ月しか経っていない浦川ではあるが、早くも将来の道をぼんやりと模索していた。次の新しい刺激を求めているようにも見える。
浦川は、これからも探偵の仕事を続けるのだろうが、彼がどう成長、いや進化していくのか興味深い。新しい刺激は、慣れるにつれ薄まっていく。それに対して、より強く、より深い刺激を求めていくのか。それとも、まったく別の刺激を追うのか。どういう探偵になっていくのか、何ごとも器用にこなす彼だからこそ、勝手に想像が膨らんでしまう。
ゲームやネットといったデジタルな世界で嘘の刺激に囲まれて育ってきた世代――。現実の世界では、彼らは平時という名のもとで、熱量の少ない教育を受けてきた。相手を蹴落とすような競争を否定し、ありとあらゆる多様性を尊重する価値観で育ってきた。そんな世代の一人である浦川は、今リアルな世界に飛び出したばかりである。しかも、男と女の感情と欲望が入り乱れた複雑な世界だ。
ずっと、「本を読んでいる感覚に近いですね」という浦川の言葉が引っかかっていた。今はまだ、浦川が住む世界は別のバーチャルな世界でストーリーが進んでいるのであろう。その世界から飛び出して、自分が主人公になったとき、どういう世界が待ち受けているのか。少なくとも新しい刺激を彼に与えてくれるに違いない。
浦川は、いつの間にやら、メロンソーダと野菜ジュースを混ぜた〝野菜メロンソーダ〟とでも呼ぶべきものを飲み干していた。慣れていないだけで、飲んでいるうちにおいしくなってきたのかもしれない。さらに、「オレンジジュースも混ぜたほうがおいしいかも」とつぶやきながら、もう一度ドリンクバーに向かっていった。
初めて東京に出てきたとき、有名な交差点の人の多さに驚いた。肩と肩が擦れちがう距離で、ぶつからないように器用に都会の雑踏を歩く身体能力にも驚いた。今は京都で暮らしているが、一〇年ほど前は東京に住んでいた。一度都会で慣れ親しんだ身体ではあるが、久しぶりの東京では思ったように動けない。押しくる人の波をふらふらしながら、鈍った身体に鞭打って前に進む。
日本で最も有名な交差点は、多い日で約四〇万人もの人が往来する。国の書留で約一五〇〇人、四七秒という短い時間の間に、千人以上もの人が行き交うのだ。渋谷のスクランブル交差点ですれ違う人は、当然ながら赤の他人で知らないわけだけで、その人には生活があり、人生がある。希望、悩み、欲望、後悔など、さまざまな感情を抱えて生きているはずだ。
そんなことを考えながら、スクランブル交差点を通り過ぎて道玄坂のほうへと向かう。SHIBUYA109を左にみ、右に見えるユニクロを通り過ぎたところの三階にロイヤルホストがある。
夕方の五時前、ロイヤルホストに入店すると、まだ夕食前の時間にもかかわらず、窓際の席は若いカップルで満席だった。若者の間で流行が一九九〇年代勝るとも劣らないほどの勢いでいるのか、眼鏡の奥の彫りの深い顔をさせて、メニューを開く。昼食が遅かったため空腹ではないはずなのに、メニューを見てると、節操なく腹の虫がざわめき始めた。軽くハンバーグでも食べようかと思いながら、待ち合わせの相手から到着の電話がかかってきた。奥の席にいることを伝え、手を振って互いを認識する。笑顔でこちらに向かってきたのは、一六五センチくらいの背丈で細身の、まだ大学生のような男の子だった。
彼の名は、浦川拓だ。ジャニーズ事務所にいても不思議ではないほどの爽やかイケメンで、反射的に「なんで探偵をしているんだろう」という疑問が浮かぶ。
簡単に挨拶を済ませると、浦川は「ご飯食べてもいいですか? 朝から何も食べていなくて」と、二五〇グラムのハンバーグと大盛りのごはんを頼む。ごはんは大盛りでも無料だ。私は午後二時に昼食を済ませた自分を恥ずかしくなり、腹の虫を黙らせることにした。互いにドリンクバーを頼み、浦川はオレンジジュース、私はホットコーヒーを取ってきて、再び向かい合った。
森「今日は仕事だったの?」
浦川(以下、浦)「そうです。朝からずっと張り込みでした」
森「ちなみに、どんな依頼?」
浦「詳しい依頼内容は聞かされていないのですが、別居してる対象者が誰と住んでいるかの調査だと思います。その家をずっと張っていたんですけど、まだ誰も出てこなくて、僕だけ先に帰ってきたんです。取材だったので」
森「ご、ごめんね……。張り込みは、朝からずっと?」
浦「はい。朝五時半からですね」
朝五時半からということは、二時間近く張り込んでいたことになる。浦川は途中で抜けたいということだが、他の探偵はまだ張り込んでいるのだろう。
朝から何も食べていないって、いつもそんな感じなの?
浦「あ、何もってわけではないです。簡単なサンドイッチとかは食べました」
森「ちゃんとした食事は、ってこと?」
浦「そうです、そんな感じです」
森「なるほど。ちなみに依頼内容って、あまり聞かされない?」
浦「そうですね、毎日いろいろな案件に関わりますから、いわれたことをこなしてる感じですね。午前中にある現場に行って、午後は別の現場に行くこともありますし。調査書である程度は把握していますが、詳しいことは僕のところまで降りてこないですね」
浦川が所属している探偵社では、相談員と調査員の役割が明確に分担されているそうだ。他の探偵社によっては、ひとりの探偵が相談から調査まで全てをこなすこともあり、その探偵社の方針によって、多くの探偵社で分業化されているのかもしれない。
依頼者と直接やり取りをするのは相談員の仕事だ。依頼内容から調査報告、アフターケアまで依頼者に寄り添った対応を行う。一方、調査を行う探偵は、依頼者と接することがない。他の章でも述べたが、依頼者や対象者に対して過剰な感情移入をさせないためだ。さらに踏み込んで聞こうとしたところで、店員が料理を運んできた。店員は機械的にソースの説明などをして、ロボットのような動きで隣の席の皿やコップを片付け始めた。
浦「食べながらでもいいですか?」
森「もちろん」
それにしても、浦川はおいしそうに食べる。細い身体からは想像できないほど、次から次へと食べ物が口の中に運ばれていく。よほど腹が空いていたのだろう。久しぶりの食事の邪魔をするのも悪いと思い、取材を中断することにした。私はコーヒーのお代わりに立ち上がり、浦川のドリンクも一緒に取ってくる。
どこから見ても今どきの若者だが、実は探偵なのである。鋭い眼光をしているわけではなく、職人気質の探偵オタクでもない。見た目だけで判断して申し訳ないが、喧嘩が強そうでもなければ、頭が切れる雰囲気でもない。体育会系でもなければ、文学系でもない。リーダー体質でもなければ、孤独を愛するタイプでもなさそうだ。何かに飢えているようにも見えないし、夢や希望に胸を膨らませているようにも見えない。険しいものもなく、きれいなものを一切感じさせない。何でも要領よくこなし、友だちと楽しく遊んでいそうな、今どきの若者である。
コーヒーを飲みながら、そういったことを考えていると、浦川のハンバーグはあっという間になくなっていた。気持ちいいほどの食べっぷりだ。頃合いを見て話しかける。
森「いつもそんなに急いで食べるの?」
浦「え? そうですね。お腹が空いていたもので……。でもまあ、早食いのほうかもしれないですけど……。みんなそんなもんじゃないですか?」
探偵という職業柄、早食いが多いのかもしれない。張り込みや尾行など、目を離せない状況で、食事にありつく暇もないのだろう。食べられるときに食べておこうと思えば、自然と早くなる。それが習慣になっているようだった。
森「浦川くんは今いくつ?」
浦「二三です」
森「探偵になってどのくらい?」
浦「四カ月くらいです」
森「なんで探偵になったの?」
唐突ではあるが、これを聞かないことには先に進めない。
浦「えーと……。普通に就職サイトで見つけたんですよ」
森「……」
浦「面白そうだなと思って、ちょっと受けてみようかなって軽い気持ちで受けて、入社したという感じです」
森「怖くなかった?」
浦「ちょっと怖かったですね。正直、胡散臭かったですよ。その頃、大学を中退して、二カ月ほどフリーターをしながら、グダグダしていたのもあります。」
森「大学、中退したんだ?」
浦「はい。四回生のとき、家庭の事情でほとんど学校に行けなくて、単位が足らなくなってしまって……。普通に就職するのもどうかなって。面白そうな仕事、なんか強みになる仕事がいいなあって探していたんです」
森「家庭の事情って、どういうの? 話せる範囲でいいんだけど」
浦「簡単な話で、借金です。親の借金が大変になって、バイトをして家にお金を入れないといけなくなっちゃったんです」
見た目だけでは決してわからないものだ。あっけらかんとした浦川にも、さまざまな苦しみや悲しみがある。ポジティブな感情だけで生きていける人間など存在しない。ときには、自分の力ではどうにもならない出来事も起きる。人の人生をあっという間にのみ込む天災、あらゆる人間活動を遮断してしまうウイルスの発生、「なんで自分が」といいたくなるような事故や病気……。そういった避けることのできない暴力がいつ自分の身に降りかかってくるのか、誰にもわからない。
浦川拓は、一九九六年に埼玉県で生まれた。子どもの頃から友人に恵まれ、脇道にそれることもなくまっすぐに育った。両親と二歳違いの妹の四人家族である。
中学生のときは、バスケットボール部に所属。背が低かったため、ガードと呼ばれるボールを運ぶポジションだった。作戦を考えて味方選手を動かし、試合をコントロールする重要なポジションである。本人曰く、弱小チームだったそうで、地区大会の二回戦、三回戦で敗退したそうだ。どちらで敗れたのか、はっきりと思い出せない。バスケ部に入部したきっかけは、「めちゃくちゃ背が低かったので。身長が伸びたらいな」という軽い動機だった。勉強のほうは可もなく不可もなくな理科や社会は好きだったが、数学は苦手だった。親に対する反抗期は少しはあったものの、親しい友人たちと充実した三年間を過ごした。
高校では、バスケットボールはスッパリと辞めて、何か新しいことをしようと決めていた。しかし、何がしたいのかわからないまま高校生になった。たまたま同じクラスの前の席の子と親しくなり、誘われるままに軽音部に入部した。その友人はベースをしていて、部員を集めていたのだった。楽器の経験はなかったが、持ち前の器用さでギターとベースをこなした。バンドメンバーの好きなジャンルがバラバラだったため、みんなの間を取って邦楽ロックのコピーを演奏していた。浦川自身は、本当はアニソンをやりたかった。
中学時代までは多くの友人に囲まれていたが、高校時代は狭いコミュニティーの中で生きていた。理由は、軽音部が狭い世界で居心地が良かったのだ。数には関係なく、高校でも友人に恵まれていた。
熱心に受験勉強をしなかったため、希望する大学には入れず、すべり止めの大学に現役で入学。将来の夢や目標は見つかっていなかった。大学に進学したのは、将来のことを考える時間がほしかったからでもある。
それにしてもプログラマーとして働いている高校時代の友人がいた。一人でプログラムを書いてスマホのアプリを作っている彼を、浦川は羨ましく見ていた。手に職をつければ、どこでも生きていけると感じたが、高三でその道に進む勇気はなかった。一生のことなので、大学でゆっくり考えたかったのだ。経営学部を選んだのも、その後の選択肢の幅が広いためだ。
大学ではサバイバルゲームのサークルを立ち上げた。仲良くなった友人がミリタリーオタクだったのだ。
「ミリオンの友だちに誘われて、サバゲーのイベントに連れていってもらったら、かっこよくって。一回やったら、ハマっちゃいました」
仲のいい友人四人でサークルを立ち上げ、三年後には一〇人ほどまでにメンバーが増えた。エアガンを使用するので、普通の公園でのサバイバルゲームは禁止されている。貸し出されているフィールド(千葉県に多いようだ)に出かける必要があるため、活動は基本的に土日中心になる。また、他の大学のサークルと試合をしたり、サバイバルゲームのイベントに参加したりもした。
サークル内ばかりで遊んでいたわけではなく、気が合わなかったのか、付き合っている彼女はいた。実家近くの大学に通っている子で、居酒屋で知り合った。
「半年酔った勢いで声をかけたんです」
サバゲーである。その彼女とは、大学四年生のときに別れたそうだ。親の借金が大変になり、ほとんど大学に行けなかった時期である。
浦川が小学校二年生のとき、父親は飲食店を始めた。開業のために融資を受け、借金を背負った。オープンな家庭だったこともあり、小さい頃から家に借金があることは知らされていた。飲食店の売上はそれほど多くなく、定期的に運転資金を借り続け、利子を返すだけでも大変な状況に陥った。
現状を変えるためには、ある程度まとまった金が必要となり、浦川は大学に行かずにアルバイト中心の生活を余儀なくされた。昼間はコンビニ、夜は居酒屋というアルバイトを掛け持つ生活が続く。常勤のバイトが入っていない日は、引っ越し作業など日の雇いにも精を出した。彼女との距離も自然と遠くなっていった。
その頃の気持ちを聞いてみると、熱を感じさせない言葉が返ってきた。
「ましょうがないなって感じでした。そんなに重く受け止めていなかったですね」
浦川は大学を退学することにした。単位が足りなくなったのもあるが、大学の授業料をもう一年払う余裕がなかったからでもある。結局、浦川の大学生活はサバイバルゲームとアルバイトで終わり、今後の人生について考える時間はなかった。
森「大学は卒業したかった?」
浦「それはそうですね。でもまあ、それも含めて仕方がないですね。その分、他の人にはない強みを見つけようという気持ちが強くなったのはあります」
森「今は付き合っている子はいないの?」
浦「いないですね」
森「やっぱり恋人ができにくい仕事なのかな?」
浦「いやあ、うまいことやっている人はいるんですよ。僕はまだこの生活に慣れていないだけで、慣れている人だと、結婚して家庭を持っている人もいますし」
森「友だちの影響は受けるほう?」
浦「それはあるかも、ですね。ふらふらしているところを誰かに引っ張ってもらえるとラクだなぁ、とは思ってました」
浦川は、友人から誘われて何かを始めることが多い。バスケットボールを始めたのは、少しでも身長が伸びたらいいなという期待からだったが、「友だちと一緒に入ったのだったかな……」とも言っていた。新しいことに挑戦したい気持ちがあっても、その〝何か〟を見つけられずにいた。
刺激を求めているようでもある。しかもリアルな刺激だ。バスケットボールからバンドに移り、大学ではサバイバルゲームにのめり込んでいった。そして、探偵という職業。より強い刺激を求めているようにも見える。今の世の中は、リアルな刺激が少ない社会でもある。欲は尽きないが、最低限の生活は生まれたときから確保されている。浦川の家庭は借金を抱えていて裕福ではなかったが、それでも子どもの頃から食べ物に困ったことはない。普通に学校に行って、部活をし、高校生としては高価な楽器も買えた。
今はゲームやネットの世界でしか激しい刺激を味わえない。画面上で敵を殺したり、危険な冒険をしたりすることは、ゲームの中だけの出来事である。ネットで探せば、ありとあらゆる疑似体験ができるし、面白動画も溢れている。でも、それは本人にとってはバーチャルな刺激である。現実の世界でリアルな刺激を求めたくなるのは自然なことかもしれない。
森「初仕事って、覚えてる?」
浦「上野で張り込みだったはずです。上野駅の近くにある居酒屋で、対象者が出てくるのを待っていました」
森「それも浮気調査?」
浦「そうですね。その居酒屋で対象者たちが会っていて、路上で四、五時間くらい立っていましたね」
森「ずっと立ってたの?」
浦「そうです。何もわからない状態だったんで、こんなに待つ仕事なんだって驚きました」
森「結局、どうなったの?」
浦「実は、途中で帰ったんですよね。会社の規則で、研修中は終電までには帰らないといけないというのがあって。後から聞いた話によると、空振りだったみたいです。ワクワクしていたんですが、何もなくて終わってしまって、ちょっと残念だった記憶があります」
森「残念だった?」
浦「そうですね。何かが起きるような予感があったんだと思います」
森「何かが起きてほしかった?」
浦「期待していたんでしょうね。たぶん……」
森「これまで面白い事件とかあった?」
浦「最近の話ですが、面白かったというか、びっくりした案件がありましたね」
東京ディズニーランド(および東京ディズニーシー)では、大晦日に特別なイベント「ニューイヤーズ・イヴ」が開催される。大晦日の午後八時から元旦の午前六時までのイベントで、特別なパレードが行われ、年越し花火も打ち上がる。このイベントに対象者が参加していた。一緒にいたのは、家族ではなく浮気相手である。
依頼者は三〇代前半の女性で、夫の浮気を調査してほしいという依頼だった。「ニューイヤーズ・イヴ」に参加するためには、競争率の高いチケットが必要になる。浦川らはチケットが取れず、駐車場に止めた車の中で待機し続けていた。
長い待ち時間を持て余していた浦川探偵は、この後の展開について互いに予想し合った。朝六時まで出てこないのか、メインイベントの打ち上げ花火が終わったら帰るのか、そのまま帰るのか、それともホテルに寄るのか。ホテルに行くなら、どの辺のホテルに行くのか。舞浜近くのホテルだろうか。いや、女性の家の近くにあるホテルに行って、朝方送ってから家に帰るのではないか。
新しい年が明けようとしている駐車場で、対象者の車近くで張り込んでいる探偵らは、紅白歌合戦を見ながら年越しそばを食べるのではなく、そんな想像を語り合っていた。探偵に恋人ができにくい理由、結婚生活がうまくいきにくい理由は、こういったところにもある。クリスマスや正月、バレンタインデーといった恋人たちや家族のイベントは、不倫調査の繁忙期でもあるのだ。
今回の案件は相手の女性が既婚者で、ダブル不倫であることがわかっていた。大晦日と正月という特別な日に家族を放って密会しているのだから、すでに開き直っているのかもしれない。
二人は朝四時過ぎにディズニーランドから出てきた。浦川はいつでも追跡できるように車をスタンバイ。ところが、対象者たちの車は一向に動き出さない。しばらくすると、対象者たちの車が不自然に揺れ始めた。
車の中では始まってしまったのである。浦川らは、証拠を取るために、対象者の車に近づく。しかし、後部座席はスモークガラスで見えない。フロントガラスもカーテンのような布で覆い隠されていた。決定的な証拠は取れなかったが、車が揺れているところは動画で押さえた。
森「探偵の仕事は面白い?」
浦「面白いですね。基本的に耐えることが多いですし、苦しい時間も長いですが、急に興奮したりするんですよ。そういう瞬間は忘れられないです」
森「興奮するんだ?」
浦「そうですね。仕事が完璧にうまくいったときは興奮しますね。対象者がホテルに入って出る。その入りと出を動画で完璧に撮影できたときは、興奮します」
森「そっちの興奮なんだ。追っていた対象者がついに尻尾を出したという興奮ではないんだね」
浦「う〜ん……。どうなんでしょう? それも興奮しますが、その二つの違いは僕にはないですね」
森「同じってこと?」
浦「人の欲望を覗き見する興奮もありますけど、それは仕事と一体になっていることですから」
森「人間不信になったりはしない?」
浦「ならないですね。『面白い人もいるなあ』とか『ああ、やっちゃった』というのはありますけど」
森「感情移入することは?」
浦「ちょっとあります。『家庭での立場が弱くて、不倫に逃げちゃったのかなあ』と想像したりはします。そういう気持ちもわかりますが、ダメなものはダメですからね。こっちは仕事でさせてもらだけですし。どちらかというと、本を読んでいる感覚に近いですね」
覗き見したときの興奮と仕事がうまくいったときの達成感が同じ、ということがうまく理解できなかった。対象者の尻尾をつかんだときの快感は、あくまでもノルマを達成したような感覚なのかもしれない。対象者の尻尾をつかむことは、小説やスクリーンの中のフィクションの世界に近い感覚だと思っていた。本を読んでいる感覚ということは、あっても、自分とは違う世界の出来事として割り切っているのである。感情が揺さぶられることはあっても、後から振り返ると、そこまで深刻な感情ではなかった、ということなのだろうか。ビジネスライクな関係なのかなとも思ったが、そう単純でもなさそうだ。
浦「そういえば、人探しの依頼で、対象者を探し出したときは鳥肌が立ちましたね。人探しって、あんまり依頼できないと聞いていたので、見つけたときは興奮しました」
「家出した息子を探してほしい」という両親からの依頼だった。家出した息子とは、二七歳の社会人経験もある男性である(当時求職中だった)。
家出の原因は、借金。対象者は、消費者金融から多額の借金をしており、父親のクレジットカードも無断で使用していた。すべての借金を家族に押し付けるようにして家を出たのである。家庭内夜逃げみたいなものである。
対象者である息子の金遣いが荒くなったのは、キャバクラに通い始めたことが原因だった。依頼者である両親によると、前職を辞めた後から夜に出かけることが多くなったそうだ。友人と飲んでくる、といっては、酔いつぶれて帰ってくることもあった。毎日のように出かけるのだが、これまで夜中に出歩くことは少なかったし、それほど友人が多いタイプでもない。心配ではあっても、成人している大人である。何度か声はかけたが、強く問い詰めるようなことはしなかった。
キャバクラ通いが発覚したのは、クレジットカードの明細書からである。父親と息子は、明細書を前に怒鳴り合いになった。父親が怒る理由は明確だが、息子が言い返す根拠は何一つない。いたたまれなくなったのか、結局、息子は逃げるように家を出ていった。しかも、父親名義の携帯電話(家族共有で使用していた)とクレジットカードを持って。
後日、消費者金融からの督促状が届いたことで、息子の借金が明るみに出た。
息子が持っていった携帯電話に何度もかけたが、息子が出ることはなく、そのうち電源が切られてしまった。両親は、息子が自殺を考えているのではないかと心配して、探偵に依頼してきたのである。
浦川ら探偵は両親の協力を得て、契約している電話会社に携帯電話の捜索を依頼した。名義者であれば、携帯電話の位置情報を教えてくれるのだ。電源が入っていない場合は、過去の位置情報を教えてくれる。ただし、どの基地局で反応があるかしかわからず、半径数百メートルくらいの範囲のどこかにいる、という曖昧な情報しか得られない。捜索の結果、横浜の住宅街にいることがわかったが、運が悪いことに四つの基地局が重なり合っている地域だったため、詳細な場所まで絞り込むことはできなかった。
探偵もちは、六人でチームを組み、対象者が利用する可能性がある駅で張り込みを開始。四カ所に分かれて駅を利用する人を六人で目で追った。通りすがりの人の顔を追う作業(面取り)は、思ったよりも重労働である。会社の出入り口で張り込むのと、四方八方からひっきりなしに往来する多種多様な人を観察するのとでは、まったく違う作業である。三〇分もしないうちに、目と脳が疲れてしまう。集中力も続かないので、浦川と先輩と頻繁に交代しながら面取り作業を行った。
何の結果もなく初日の調査を終了。その後、駅前での張り込みだけではなく、範囲内にあるコンビニなどで張り込みの聞き込み調査を行った。熱を上げていたと思われる女性に聞き込みを行ったが、手応えのある回答は得られなかった。
対象者が通っていたキャバクラにも聞き込み調査を行った。熱を上げていたと思われる女性に話を聞くことができたが、彼女は「最近は連絡もないですね」と、さほど興味がなさそうに答えただけで、有力な情報は得られなかった。
対象者は、前職を辞めたとき、気分転換、好奇心でキャバクラに行ってみたのだろう。女性との恋愛経験がほとんどなかったこともあり、一人の女性にのめり込んでしまった。女性に優しくされ、舞い上がってしまったのかもしれない。女性にとっては、客の一人でしかなかったが、純な対象者は親密な関係と勘違いした。多額の借金までして、足繁くキャバクラに通い、その女性を億劫に感じるほど惚れたのは間違いない。
調査期間は、最初から二週間と決められていた。今回の人探しは不発で終わるのかと思われた調査最終日、事態は急展開を迎える。
立ち寄る可能性が最も高そうなコンビニで張り込んでいると、それらしき人物が現れたのである。「ああ、あれじゃないですか」。と先輩に伝え、写真を撮った。その画像を依頼者に送り、対象者の確認も取ろう。その間も、浦川らは対象者をしっかり人込みを追う。依頼者からの「息子で間違いありません」という返事を得ると、浦川の体内でアドレナリンが一気に溢れ出した。
「もうびっくりしました。無駄骨に終わると、覚悟していたことから」
尾行を続けて、住まいを確認。対象者は小さくて古いアパートに入っていった。作業服を着ていた。何かしらの仕事をしているのだろう。やはり、女の影は感じられなかった。
浦川の仕事は、生存確認をして住所を特定する「宅割り」まで。その後どうなったかはわからない。想像でしかないが、一時的に女性にのぼせ上がったけれど、返せないほどの借金を抱えて冷静になったのか、父親のカードを無断で使用した罪悪感に苛まれたのか、相手から拒絶されて我に返ったのか、もう一度働き始めたようである。もともと真面目なタイプなのだろう。少しずつでも親に返済していくつもりだったのかもしれない。実家のある東京から、逃げた横浜までの距離からも、そう考えるのが自然だろう。
本人にも家族にも大きな痛手ではあったが、一人の男性が大人になるために必要な経験だったように思えてならない。依頼者から渡されていた写真の対象者は、心配になるほど純粋な顔をしていた。社会の悪意、闇、嘘や汚いといった負の部分に一切触れてこなかったような表情だった。
しかし、コンビニで見つけた対象者の顔つきは明らかに違っていた。「目つきが鋭く、男っぽくなった」という浦川の言葉からも、その変化の様子が窺える。
失敗や間違いは誰にでもある。我を忘れるほど人を好きになることもある。当の本人にとっては地獄のような時間だったかもしれない。それでも、後から振り返ると、貴重な時間だったと感じるのではないだろうか。そのときに戻りたくもなければ、同じことをしたいとも思わないが、あの濃密な時間はほろ苦い思い出として胸に深く刻まれるだろう。
すべてを投げ捨ててしまう過剰さも、たった一つの情動に支配される危うさも、若者の特権だ。親や友人、他人に迷惑をかけることはあるだろうが、みな、お互い様である。大事なのは、そこから立ち上がれるかどうかではないだろうか。
家出をした対象者はきっと前を向いていくように思われた。多額の借金をしてしまったし、両親には恥ずかしい思いをさせてしまった。最愛の人にも裏切られた(と本人は思ったはずだ)。自宅に戻りずらい土壌もあるし、本人が生まれ持った力強い種もある。一度くらいしおれても、また力強く成長してくれるだろう。
浦川も借金の返済に苦しんだ経験がある。自分の借金ではないだけに、この対象者よりも理不尽に感じていたのではないだろうか。そんな素振りを一切見せないが、つらかった過去の日々を乗り越えて、今の浦川がいるのだ。だからこそ、浦川にとって今回の案件が印象に残っているのではないだろうか。
森「他に印象深かった案件ってある?」
浦「そうですね……。とても不思議な依頼がありました。手紙を渡してほしい、という依頼です」
森「手紙?」
浦「そうです。普通に郵便で出せばいいんじゃないか、と思ったんですが、相手の住所がわからないので、探偵に依頼してきたみたいです」
森「どういう依頼者だったの?」
浦「三〇代前半の女性でしたね。手紙を渡したい相手というのが、元彼の今の奥さんなんです」
森「それは、ちょっと怖いね」
浦「ですよね。依頼者から手紙を預かって、元彼の奥さんに渡すわけですが、何が書かれているのか、何が入っているのか、想像するだけでも恐ろしいですよね」
森「中身は知らなかったの?」
浦「僕は教えてもらえなかったですね。さすがに上の人はチェックしているはずですが……。だって、脅迫文だったりしたら、犯罪に加担したことになりますから」
森「それでも気になるね」
浦「元彼は現在、名古屋の鳥居商事で先生をしていることはわかっていたんです。それで、車で名古屋まで行ったんですが、ずっと手紙の内容が気になって気になって……」
森「どんな内容だと思ったの?」
浦「一緒に行った先輩もあれこれ話していたんですが、どっちだと考えても恐怖でしかないんですよね」
浦「どっちも考えてる?
森「どっちも考えてる。良いように考えたら、彼はこんなところもあるけど、優しくていい人です。絶対に幸せにあげてください、といった内容ではないか、と」
森「それは怖いね。悪いように考えたら?」
浦「うん、犯罪にならない程度に彼の悪口ばかり書かれているパターンではないか、と想像しました。さすがに『こんな男とは別れたほうがいい』というのは脅迫に近いですからね。あとは、二人の秘密を暴露する系ですかね。リベンジポルノみたいな」
森「恐ろしい……。その依頼者は結婚しているの?」
浦「いや、独身なんですよ」
森「悪いようにしか想像できないね。それで、結局どうなった?」
浦「元彼が働いている高校で、朝から夜まで張り込んでいたんですが、なぜかその日は来なかったんです」
森「夏休みとか?」
浦「いえ、平日です。普通に授業が行われているようでしたので、創立記念日とかでもないはずです。何かあったんでしょうね。風邪だったのか、研修があったのか、たまたま休みだったのか」
森「家はわかる?」
浦「そうなんですよ。結局、手紙は渡すことができず、また名古屋から東京まで持ち帰りました。だから、手紙の内容はわからないままです。いまだにモヤモヤしますね」
森「聞いているだけでモヤモヤしちゃったよ」
浦「不思議な依頼もあるんですよね」
森「ちょっとドリンクを入れてきてもいいですか?」といって、浦川はドリンクバーに向かった。私もコーヒーを入れに立つ。浦川はドリンクバーの前で少しだけ思案して、コカ・コーラとカルピスを半分ずつ入れ始めた。
「それって、おいしいの?」と聞くと、浦川は「初めてなんで、どうですかねえ?」といいながら、一口飲む。「うん、まあまあおいしいですね」と屈託のない表情でいった。カルピスソーダもあるのに、あえてカルピスをコカ・コーラで割っていた。
そのときに変な飲み方をするなあと思っていたのだが、後で調べてみると、かつてカルピスの原液をコカ・コーラで割って飲む「キューピット」という飲み物があったようだ。一九七〇年代に大阪の喫茶店で流行ったようで、今でもメニューとして残っているところもあるという。あ試にウェブで検索してみると、カルピス・コーラという名称のレシピもたくさん出てきた。ある界隈では人気があるようだ。ものは試しということで、自宅で「キューピット」「カルピスコーラ」なるものを作ってみた。カルピスの原液にコーラを入れるだけ。本場のキューピットは輪切りにしたレモンを入れるそうだが、そういう細かいことは気にしない。スプーンでかき混ぜてグイッと飲んでみると、確かにおいしい。表現が難しいのだが、甘ったるい駄菓子のようなコーラだ(さっぱり伝わらないだろうが)。病みつきになる人も多いそうで、ミルクを加えてミルクセーキ風にするレシピもある。
その甘ったるいカルピス・コーラを飲みながら、浦川は失敗談を語ってくれた。
浦川はレンズ越しに対象者と目が合った。
レストランから出てきた対象者が浦川に近づいてくる。「バレた」と気付くのがわずかに遅れた。浦川は急いで逃げた。相手は「なんだアイツ!」撮影していたぞ!」と大きな声を上げるだけで、追いかけてくることはなかった。捕まってカメラを壊されるような事態になれば、大失態だ。経験を積むと、その人がどこを見ているのかがわかるようになるそうだ。遠くを見ているのか、ただ前を見ているのか、一点を集中して見ているのか、視線の区別ができるようになる。
「こっちのほうを見ていても、自分のことを見ているとは限らないですよね。視界の中に入っているだけで、対象者が思っていた方向と違う方向を向いていることもあります。でも、そのときは明らかに目が合いました」
中でも〝勘〟が最も警戒するべきものであり、油断ならない。ぼんやり見ていたり、別のものを見ていたりする場合、その視線はまったく違う。僕のことを疑っているときは、鋭いというか目力を感じるとか、説明しにくいのですが、まっすぐこちらを見ているんです」
当時の浦川は、その視線の違いがわかっていなかった。最初のうちは、視界に入っているだけで、「僕のことを見ているんじゃないか?」とドキマギしていた。しかし、対象者が思ったほうと自分を見ていないことに慣れると、今度は対象者の視線に鈍感になってくる。「どうせ見ていないだろう」と大胆になってくるのだ。慣れると警戒心が緩くなるのは、探偵に限らず、すべての人間にいえることかもしれない。油断大敵である。
自分を見ているのに、気付かない。もしくは、気付くのが遅い。一瞬で気付けば、すぐに対応できる。目線を外したり、スマホを見たりして、ごまかすことも可能だ。普通に道を歩いていても他人と目が合うことはある。でも、ずっと見られていることはまずない。ちょっと目が合ったくらいなら、こちらの正体は発覚せずに済む。
ホテルから出てくる場面は、調査でいえば大詰めである。そこで失敗してしまったら、どうするのだろうか。
「対象者に完全にバレてしまったら、もう自分たちで胸になるしかないですね」
浦川の探偵社は、調査の際は最低でも二人で動く。一人が尾行に気付かれた場合、気付かれた探偵が消えて、もう一人の探偵が追い続けられる状況を作るのだ。対象者たちが食事を終え、レストランから出てきたところで、あいつ、店に入る前にもいたような気がする……」と疑われたら、対象者たちはまっすぐにホテルには向かわなくなる。だからといって、「今日はやめておこう」ともならない。ほとんどの人は、疑わしい人物を撒こうとする。怪しい人物がいなくなれば、安心して次の行動に移すことができる。不貞の証拠を取るためには、気付かれたほうは捨て駒となって、もう一人の探偵のフォローに徹するのが最善策なのだ。
今回の対象者も同じで、浦川の姿が見えなくなったことで、案の定、途端に走った。一度燃え上がった情熱は、そう簡単に鎮火しない。「ひょっとしたら、嫁が調査を依頼したのかも」という疑いが頭の片隅に浮かぶかもしれないが、「そんなわけないだろう」と楽観的に考えるのか、「どうせバレているなら、もういいや」と開き直るのか、どちらにしても問題なく事を済ませてしまう、対象者の多くは目の前の情欲に溺れてしまう。
これは、浮気をしている人の習性かもしれない。浮気は、発覚するかもしれないというリスクと常に背中合わせの状態だ。「いつかバレるかもしれない」と思いながらも背徳行為に身を投じるのだから、より情欲に流れやすいのではないだろうか。
探偵同士は、連携して行動するために、調査中は連絡を取り合っている。特に大事な場面では、携帯電話を通話状態にしておき、イヤホンマイクで会話することも多い。「自分、今、たぶん見られました。かなり警戒されているんで消えます。最後のところだけよろしくお願いします」といったやり取りをする。
ピンチの状況下で、どういう対応を取れるのか――。そこで探偵としての資質が問われる。修羅場になったり、失敗したとしても、冷静に次の判断ができるかどうか。浦川も、そういう先輩に憧れている。
「切羽詰まると、頭が混乱してしまいます。平然とした顔で、正確に一番近い行動ができる人はすごいですよね」
尾行していた対象者を見失ったら、普通は「どうしよう……。どっちに行った?」とあたふたしてしまう。対象者を見失うのは、探偵にとって致命的なミスなのだ。ただ、失敗したことはどうしようもない。大事なのは、いかにリカバリーできるか、である。
浦川の尊敬する先輩は、たとえ見失っても、「走っていなかったから、きっとこっちに行ったんじゃない?」、「後ろ姿が見えないということは、この道を曲がったんじゃない?」と冷静に判断して、最も可能性の高い選択ができるそうだ。ある程度、対象者の行動を予測しているのだ。さらに「対象者がこうしたら、ああしよう」というふうに、常に先回りして、次の行動をシミュレーションしている。だから、見失ったとしても素早く対応できるのである。
「浮気相手の居住地近くで、対象者が急にいなくなったことがあるんです。僕は焦っていたんですが、その先輩はマンションのベランダ側に回り込んでいて、部屋に入るところを撮影していました。このマンションかもしれないって予測していたんでしょうね」
浦川は、また立ち上がってドリンクバーに向かった。カルピス・コーラは、喉が乾くのかもしれない。話していて、ただ喉が乾いただけかもしれないが。
私は、浦川の後ろ姿を見ながら、リカバリーについて考えていた。リカバリーさえできれば、ミスはミスではなくなる。探偵の仕事も、その場でリカバリーしなければいけないが、他の仕事、いや仕事だけでなくプライベートでも、ミスはいつでもリカバリー可能なのかもしれない。リカバリーできれば、過去の失敗はただの笑い話になる。「終わりよければすべてよし」というのは、リカバリーがうまくいった結果なのだろう。
そんなことを考えていると、今度は深緑色をした液体を持って、浦川は戻ってきた。それはいったい何なのかと聞くと、「メロンソーダと野菜ジュースを混ぜてみたんです」と笑顔で返し、ちょっと微笑ましそうな顔で飲んでいた。
森「これからも探偵、続けていくの?」
浦「どうなんでしょうね。う~ん……、まだ探偵になって四カ月しか経っていないのでなんともいえないですが、ずっとは難しいんじゃないかな……と感じています」
森「どうして?」
浦「無理して続けていくことはできるでしょうけど、体力的に厳しくなるんじゃないかな、と」
森「やっぱりしんどい?」
浦「しんどいんですね。今はまだ若いので二、三日徹夜しても平気ですが、年上の先輩を見ていると、ずいぶん身体にきているようですし、実際に『しんどい』っていっていますしね。だから、もし続けるのであれば、独立して自分の探偵社を持って、依頼者の相談を受ける道になるんだと思います」
森「それはそれで、精神的にきついかもね」
浦「そうかもしれないですけど、興味はあります」
探偵になって四カ月しか経っていない浦川ではあるが、早くも将来の道をぼんやりと模索していた。次の新しい刺激を求めているようにも見える。
浦川は、これからも探偵の仕事を続けるのだろうが、彼がどう成長、いや進化していくのか興味深い。新しい刺激は、慣れるにつれ薄まっていく。それに対して、より強く、より深い刺激を求めていくのか。それとも、まったく別の刺激を追うのか。どういう探偵になっていくのか、何ごとも器用にこなす彼だからこそ、勝手に想像が膨らんでしまう。
ゲームやネットといったデジタルな世界で嘘の刺激に囲まれて育ってきた世代――。現実の世界では、彼らは平時という名のもとで、熱量の少ない教育を受けてきた。相手を蹴落とすような競争を否定し、ありとあらゆる多様性を尊重する価値観で育ってきた。そんな世代の一人である浦川は、今リアルな世界に飛び出したばかりである。しかも、男と女の感情と欲望が入り乱れた複雑な世界だ。
ずっと、「本を読んでいる感覚に近いですね」という浦川の言葉が引っかかっていた。今はまだ、浦川が住む世界は別のバーチャルな世界でストーリーが進んでいるのであろう。その世界から飛び出して、自分が主人公になったとき、どういう世界が待ち受けているのか。少なくとも新しい刺激を彼に与えてくれるに違いない。
浦川は、いつの間にやら、メロンソーダと野菜ジュースを混ぜた〝野菜メロンソーダ〟とでも呼ぶべきものを飲み干していた。慣れていないだけで、飲んでいるうちにおいしくなってきたのかもしれない。さらに、「オレンジジュースも混ぜたほうがおいしいかも」とつぶやきながら、もう一度ドリンクバーに向かっていった。