探偵の知識

第三章 探偵愛

2025年11月19日

探偵はここにいる
森 秀治

「これが現場で使っているカメラなんですよ。ソニーのαシリーズなんですけど、暗いところでもかなり鮮明に撮れるんです。探偵アイテムで、時折型のカメラとか眼鏡型のカメラとかってあるじゃないですか。あれは全部パフォーマンスです。ドラマとか映画ではよく出てきますが、実際は使わないですね。そもそも、たまに他の探偵社さんがテレビとかで『こんなカメラを使ってます』なんてやってますが、あれも嘘です。画質も悪いですし、実用的ではありません」
会って早々、カメラについて熱く語り出したのは、三六歳の探偵、中嶋正則である。中嶋は、背が高く肉付きのいい男性で、度が強いそうな黒縁眼鏡をかけている。すぐに汗が吹き出るのか、常にタオルで顔を拭いていた。顔の汗を拭う仕草が持ち上がるのも印象的だった。現在勤めている探偵社では新人を教育する立場で、社内の調査マニュアルの作成にも携わっているまさに脂が乗っている探偵である。
取材日は休日だったようで、Tシャツに迷彩柄のカーゴパンツというラフな服装。取材のために、いくつかカメラを持参してくれていた。
「これもカメラなんですよ」と取り出したのは、スマホ型のカメラだ。「六万円くらいするんですけど、実用的なんです。スマホで撮影しようとしたら、こう撮らなきゃダメじゃないですか」
中嶋はそういって、スマホを顔の前にかざした。写真を撮るときは、カメラをまっすぐ立てるため、まわりにはいかにも撮影していることが一目瞭然だ。
「でも、このカメラはこうやって撮れるんですよ」と、中嶋はスマホを斜めにして撮影の実演をする。レンズがスマホ上部にあることで、普通にスマホをいじっている角度で撮影ができる。まわりから怪しまれることもないだろう。撮影したばかりの動画を見せてもらうと、私の顔が鮮明に写っていた。技術の進歩にいつもながら驚いてしまう。
「このカメラ、かなり売れているらしいですよ。たぶん盗撮犯とかが使うんでしょうけど、ほら、階段とかエスカレーターとかで」
こういった特殊なカメラは、東京の秋葉原や大阪の日本橋といった電気街で購入できるそうだ。専門店には「誰が買うんだろう?」といったマニアックなカメラも売られているという。
新宿三丁目にあるしゃれたカフェで取材を行ったのだが、中嶋の声は少し大きく、周囲の女性客らがチラチラこちらを見ていた。時間は平日の午後一時。探偵の中嶋と編集者K、そして私の中年男三人は、おしゃれなカフェにあまりにも似つかわしくない。しかも、三人とも背が高い。図体も大きければ、声も大きいおっさん三人組。テーブルの上に特殊なカメラを並べて、大きな声で熱く語り、〝盗撮〟〝盗聴〟〝不貞〟といった言葉が飛び交うものだから、こちらは冷や汗ものである。
編集者Kも写真を趣味にしている。編集者という特権を悪用して、担当する書籍のカバーを自分で撮影することもある。公私混同も甚だしい。その編集者Kが最初に見たてらったソニーのαシリーズに興味津々だった。「やっぱりソニーがいいんですか?」と食いついている。楽しそうに、「ソニーのは、ISO感度をすごく上げられるんですよ。そんなの出すなって感じですけど、二、三年ごとに新しいのが出るので、どうしても買ってしまうんですよね」
ISO(イソ)感度とは、レンズから入ってきた光を増幅する度合いだ。簡単にいえば、ISO感度を上げると、暗いところでも撮影できる。中嶋が持っていたカメラでは、ISO感度は51200まで上げられる。ほんの三〇年ほど前のフィルムカメラの時代には、ISO感度は100〜800くらいが普通で、高感度フィルムといわれているものでも3200くらいまでだった。しかも、そこまで高感度のフィルムはモノクロしかなかった。今は桁が違うのである。
探偵の仕事は、昼間よりも夜間が多く、特に浮気調査だと、不貞行為が行われるのは、日が沈んでからだ。街の灯りが降り注ぐラブホテル街ならまだいいが、暗がりの公園で密会が重なることもある。普通のカメラでは太刀打ちできない。でも、ソニーのカメラのように高感度撮影ができると、肉眼では暗闇に近いところでも証拠映像が撮れる。赤外線カメラに頼る必要がないのだ。
探偵に最低限必要な機材は会社から支給されるが、中嶋が持っているような特殊機材は、会社は購入してくれない。要するに、自腹なのである。
「会社は買ってくれないですね。そこまでする必要がないってことだと思います。暗くて撮影できなかったら、『暗くて撮影できませんでした』と報告書に書けばいいわけですから、そのときは証拠を逃しても、別の機会で押さえればいいわけです。でも、新しいのが出ると、ついつい買ってしまうんですよね。給料のほとんどをカメラに使ってしまいます」
中嶋は、カメラなどの機材に何百万円もつぎ込んできた。現在、主役として活躍しているソニーのカメラは四〇万円ほどする。独身で一人暮らしの部屋には、三五台ほどのカメラがある。処分してしまった古いカメラもあるそうなので、実際に購入したカメラの数はもっと多い。
一九八四年に神奈川県で生まれた中嶋は、小学生の頃からミリタリーマニアだった。銃や戦車、戦闘機が大好きで、ミリタリー系のプラモデルに夢中になった。近くの森で、友だちとエアガンで撃ち合って遊んでもいた。高校生になると、連射で打てる電動ガンを携えて、本格的なサバイバルゲームにハマった。サバイバルゲームとは、エアガンを使って行う大人の戦争ごっこ。フィールドと呼ばれるエリアで敵と味方に分かれ、エアガンで敵を倒しながら敵のフラッグ(旗)を取り合う。いわば、陣取りゲームであり、運動会の棒倒しみたいなものだ。
「銃のパワーをみんな同じにして、相手の旗を取るか全滅させたら勝ちなんです。BB弾が当たったら死亡です。当たりました!」というのは自己申告です」
将来は自衛官になりたかった。ところが、中学生になった頃から視力が低下したため、自衛官になる夢は諦めた。現在の防衛省の募集要項を見ると、〝両側の裸眼視力が〇・六以上又は矯正視力が〇・八以上であるもの〟と書かれている。眼鏡かコンタクトを使用して〇・八以上というのは、それほど厳しくないように思ったが、三〇年ほど前は「両側とも裸眼視力が〇・六以上」が条件だったようだ。近視だった中嶋は、両側とも裸眼で〇・一以下だった。
高校二年生の頃、自衛官への未練がありつつも、卒業後の仕事について悩んでいた。中嶋は大学に行くつもりがなかったからだ。
「大学って、入るまでは勉強するけど、その後は遊ぶだけってイメージだったので。卒業するまでに行くんだったら四〇〇万も五〇〇万もかかるじゃないですか。貧しかったというわけではないんですけど、それほどの価値があるのかなって。早く社会に出て働きたいと思っていたので、私の中では大学に行くという選択肢はなかったですね」
自衛官を諦めた中嶋青年は、家の近所にある書店にふらりと立ち寄った。そこで、たまたま見つけたのが、『プロが明かす探偵&調査完全マニュアル』(日本文芸社)という本だった。それまでは探偵の映画やドラマに憧れることもなければ、探偵小説を読み耽ることもなく、探偵に興味を持っていなかった。探偵といえば、名探偵コナンくらいしか思い浮かばなかったという。それなのに、なぜかこの本を手に取り、ページをめくっていた。心が動く職業を探していたからでもあるが、数多ある本の中からこの本を選んだのは、潜在的に探偵という言葉に惹かれたのか、自衛官と通じる何かを感じ取ったのかもしれない。銃を構えることはなくても、カメラを構えて対象者を追う姿は似ていないこともない。
中嶋が手にした本は日本探偵協会によるマニュアル本で、具体的な探偵のテクニックが図を交えながら詳しく解説されている。「尾行は調査対象者と二〜五メートル離れるのが基本だ」「喫茶店で張り込むときは、コップのグラスで対象者を監視する」「エレベーターに同乗するときは、階数のボタンを押す役になって顔を見られないようにする」「聞き込みは、調査対象者から遠い場所で始めて、徐々に近づきながら行う」「変装は帽子と眼鏡、上着の三点セットがあればいい」など、どこの探偵社のマニュアルにも載っていそうな、具体的で実践的なテクニックが紹介されている。
中嶋青年は、探偵のテクニックに魅了された。本の中で紹介されている探偵の小道具に胸が踊った。読めば読むほど、探偵という職業に憧れていった。
「別に面白くないんですよね。面白さを求めるなら、他の本のほうがいいかもしれません。そんなことしないだろと突っ込みたくなる本でもあります。でも、私は、リアルなところに惹かれたのだと思います。探偵のテクニックに興味を持ったんでしょうね」
高校二年生の秋、中嶋は探偵になることを決意した。
その本の中には、ゴミから情報収集を行うことも書かれていた。張り込みをしているとき、対象者がゴミを出したら、それを拾ってきて、名前や住所などを特定する。レシートやカードローンの明細書があればその人の生活スタイルを知ることができる。そういう調査方法を「ガーボロジー」と呼ぶ。対象者の浮気相手の情報を得たいときなどに行う情報収集活動。
「名前を知りたいとき、集合ポストから郵便物を抜くこともあります。名前を確認したらすぐに戻しますが、法律的には完全にアウトで、抜いた瞬間、窃盗罪になってしまいます。対象者がゴミを出したら、そのまま持ってきてプレートの上で広げたこともありますよ。減らないですけど」
車を所有している対象者の中には、郵便物や書類、名刺などをダッシュボードや助手席の上に無造作に置いている人もいる。そういう場合、カメラで撮影して名前や住所、勤務先などの情報を得ることができる。
「どうしても名前を知りたいときってあるんですよね。定期券をリュックにぶら下げていた対象者が、それとカメラで撮影してフルネムがわかったケースもありました。カタカナだけですが、あとは、区役所で名前を記入しているところを覗き見したり、病院で名前を呼ばれるのを聞いたりしたこともありますね」
浮気相手に対して慰謝料請求を行う際、相手の名前と住所が必須である。加えて、相手の勤務先がわかれば、慰謝料の請求額を算出するのに役立つ。大企業に勤めていれば、それだけ高額の慰謝料を請求できる。働いていなければ、慰謝料の請求が難しくなる。払えない人に「払え」といっても意味がないのだ。また、浮気相手の家族構成も重要だ。結婚していれば、配偶者にバレたくないという心理が働くため、交渉もスムーズに進むことが多い。
対象者が結婚していることを浮気相手が知っているかによっても、慰謝料が変わってくる。もしマッチングアプリなどで独身と嘘をついて知り合った場合、浮気相手にはそれほど過失がないため、多額の慰謝料を請求することは難しいだろう。
だからこそ、対象者が独身か既婚なのかを浮気相手が知っているのか、そこが浮気調査の重要なポイントになるのだ。二人で会っているときに結婚指輪をしているのかを確認したり、奥さんや子どもの話をしていないか会話を盗み聞きしたりするのも、そのためだ。
会っている時間帯も重要だ。会うのがいつも平日で、終電までには必ず帰るとなれば、「相手は結婚しているのでは」と疑うのが普通だ。不自然な関係が継続されていること自体が、既婚であることを知っていた証拠にもなる。ただ、その証拠を集めるためには、調査期間が何日も必要になってくる。その分、調査費用も嵩むため、依頼者のためにも短期間で証拠を取りたいところである。
高校を卒業した中嶋は、すぐに神奈川県にある大手探偵社に電話した。ところが二〇歳未満は探偵として雇えないと断られた。探偵の仕事には法律上、グレーな部分が出てくる場合がある。未成年にグレーな行為をさせるわけにはいかない。成人であっても駄目であるが、心が成熟していない未成年に悪影響があるのは間違いない。
しかし、探偵社が未成年を雇わないのは、そういった理由ではない。未成年にはさまざまな制限があり、単純に面倒だというのが理由である。未成年が警察に職質や連行された場合、保護者である親に連絡がいく。探偵社としては、従業員の親が出てくると面倒である。うちの息子にこんなことをさせるなんて!」と怒鳴り込まれることもあるだろう。モンスター級の親に訴えられる可能性もゼロではない。厄介なことは避けたいので、どこの探偵社も未成年を雇わないことにしている。
そんなことまでは、マニュアル本に書かれていなかった。
探偵になるアテが外れた中嶋は、二〇歳まで待つことにした。一年我慢してでも、探偵になりたかった。そのくらい探偵という職業に惹かれていたのである。二〇歳になるまでの間、中嶋はアルバイトに励むことにした。
最初は、警備員のアルバイトだった。理由は明白で、自衛官、警察官、探偵と似た匂いがしたからだ。しかし、思っていたほど面白くなかった。東京都内にある流通センターでの警備を担当したのだが、従業員の万引きを防止するために手荷物検査をしたり、不審者がいないか火事の心配がないかなど、施設内の見回りをする仕事だった。毎日が同じことの繰り返しで、なりそうもない。そのほうがいいのだが、中嶋の心には〝退屈〟という文字が日々、増殖されていく。結局、警備員のアルバイトは二カ月で辞めてしまう。
次に見た仕事は、営業アシスタントのアルバイトだった。水槽などに入れる浄化槽用エアーポンプを販売している会社で、国内シェアトップの会社だった。アルバイトではあったが、全国のホームセンターに出向いて、自社商品のレイアウトをしたり、新商品が出たら展示してもらうよう交渉したりする仕事だ。
それほど熱意を持って始めた仕事ではなかったが、全国各地を飛び回っているうちに、いろいろな人と会えることに面白みを感じるようになった。知らない土地、行ったことがない地域、観光で行かないような場所へ出向くのは、仕事とはいえ、心が踊った。好奇心旺盛な八歳の青年とって、目の前の世界が一気に広がっていくことは魅力的なのだ。
その仕事は面白かったが、二〇歳になったとき、ためらうことなく辞めた。探偵になりたい気持ちは、二年経っても変わらなかったのだ。営業の仕事は面白かったし、正社員になれるのであれば、そのまま働いていいかなと頭をよぎったこともあった。しかし、探偵への思いは増すことはあっても枯れることはなかった。
中嶋は、一八歳のときに断られた大手探偵社にもう一度電話してみた。履歴書を持って面接に行くと、その日のうちに採用が決まった。「一八歳のときに電話して、探偵になるために二年待ちました」と聞かされたら、雇わないわけにはいかないだろう。やる気と継続が難しい探偵の世界である。一般的な会社でも二年で辞める人が多いといわれているが、探偵社では二年も続けば珍しいほうで、一カ月もたずに辞めていく人も少なくない。二年間も待ち続けた中嶋のような存在は、それだけで採用にしくなる。
二年間の空白期間を経て、中嶋は念願の探偵になった。プロ野球のドラフトでも、意中の球団からの指名を断って留年するケースがある。最近では少なくなったが、社会人チームにも属さず自主トレで身体を鍛え、一年後のドラフトを待つ選手もいる。中嶋もアルバイトだけで二年間過ごしていたわけではない。探偵に関する書籍を読んだり、ウェブサイトで探偵の情報を得たりして、自主トレに励んでいた。
最初の調査は、先輩の後ろをついていくだけだった。予備知識はあったが、探偵の仕事を初めて生で体験した。期待感が大きかっただけに感慨深く、ものがあったと想像されたが、中嶋は初仕事のことはあまり覚えていないという。
「あまり記憶がないんですよ。今から思えば、その日は張り込んだだけで、何も起こらなかったのかもしれないですね」
探偵の仕事を始めてみると、多くの探偵は張り込みのつらさに音を上げる。「張り込み八割」といわれるように、待つ時間ではあるが、気を抜けない時間が何時間も続くからだ。対象者が出てくるまで何時間もただ待つことは、素人でも苦痛だと想像できる。
しかし、中嶋には張り込みのつらさは想定内だった。探偵に関するどの本にも、張り込みの地味さと大変さが触れられていた。張り込みは、中嶋にはむしろ面白いとすら感じたそうだ。自主トレの効果が発揮されたのだろう。
「それこそ四時間動ききないこともあります。そういう意味で張り込みは地味ですが、最初は面白かったですね。今は一五年以上やっているので、面白いとは思わないですけど。張り込みって、どこかで見ているだけで、何かしているわけではないですから、ラクといえばラクなんですよ。ただ、時間が長いです」
中嶋に張り込みで印象に残っているエピソードを聞いたところ、最近あった案件を話してくれた。
依頼者は三〇代の女性。夫の浮気調査の依頼だった。中嶋は依頼者の自宅アパート(対象者のアパートでもある)の前で張り込みをしていた。場所は、神奈川県の相模原市。コーポタイプのアパートの二階に、依頼者と対象者(夫)が住んでいた。
午後九時頃、夫は買い物袋を持ったのか、車で出ていった。一緒にいた中嶋の同僚が対象者を尾行し、中嶋はアパート前で待機。三〇分後、今度は一階の部屋から女性が出てきて、車で出かけていく。中嶋はこの女性の尾行を開始すると、大きな公園の駐車場で二人の車は並んで停車した。女性が自分の車から出て、対象者の車に乗り込んだ。
二人はそのまま車内で不貞行為を行い、まだそれぞれの自分の車に乗って、何事もなかったようにアパートに帰っていった。妻である依頼者から、「二階の奥さんでてきているようだ」という情報があり、その証拠を押さえることができたのである。
「同じアパートやマンションって、意外と多いんですよ。一軒家の隣同士でデキてしまい、それをお互いの家族はみんな知っていて、『で、どうしましょうか?』という案件もありましたね」
地方では、車を一人一台持っている夫婦も多く、また総合公園の駐車場や河川敷など、気軽に車を止められる場所も多い。街灯がほとんどない場所だとお都合がいい。合流してホテルに行くパターンもあるが、車内というのも多いそうだ。意外なところだと、ショッピングモールなどの大きな商業施設の駐車場も定番だという。
「大きな駐車場で、満車でもないのに、隅のほうに二台止まっていると、『ああ、そういうことね』と思いますね。明らかにおかしいじゃないですか。普通は店の入口近くに駐車しますから」
普通のカメラだと、暗い中での不貞行為を撮影することはできない。中嶋が持っているようなカメラであれば、熱く語っていたISO感度を高くできるカメラである。中嶋が持っているようなカメラであれば、車内のナンバーまでくっきり撮影できる。後部座席はスモークガラスで、フロントガラスは目隠しされていることが多い。ISO感度を高くしても、撮影できるのは車の乗り降りだけだ。
特殊カメラを持っていなくても、車のハイビームで照らして強引に撮影する方法もあるそうだが、リスクも高くなる。調査の状況にもよるが、危険を冒してまで撮影する必要はない。
その日は車の中だったとしても、別の日にホテルに行きますし、次のチャンスを狙うほうが無難ですね」
人が人を追う以上、尾行が発覚することもある。探偵歴が長い中嶋には、対象者に気付かれて話しかけられたことが何度ももある。対象者と修羅場になったり、怖い思いをしたことはあるのだろうか。「いや、話しかけてくる人は、意外と冷静なんですよ。相手も怖いんじゃないですかね。探偵だと薄々わかっているでしょうし、ケンカ腰になってもしょうがないと思っているのでしょう。そういえば、『お前探偵だろ?』『いいえ、違います』という押し問答をしたこともありましたね」
車で移動している男性対象者を中嶋は尾行していた。埼玉県の田舎道だったこともあり、中嶋は妙な予感がしていた。すると、対象者の車は妙な動きを始めた。ハザードランプを点灯させて路肩に駐車したり、急に発進したりを繰り返すのだ。中嶋は一旦対象者から離れることにした。対象者の車には、事前に妻である依頼者の了承を得てGPSが取り付けてあったのだ。無理して接近する必要がない。
GPSで確認しながら距離を取って追っていると、対象者の車が動かなくなった。再び近づいていくと、対象者の車はサッカーグラウンドの駐車場で止まっていた。中嶋は少し離れたところに自分の車を止め、確認するために徒歩で対象者の車に近づいた。五メートルほどの距離まで近づいたとき、対象者が車から降りて、中嶋に話しかけてきたのだ。
「お前、ずっとつけてきてるだろ?」
「え?何いってるんですか?」
「〇〇あたりからつけてきてただろ?」
「わかんないですよ。つけてるってなんですか?」
といったやり取りが三〇分も続いた。話が噛み合わないことに苛立った対象者は、最終的に諦めて去っていった。白を切り通した中嶋の勝ちだった。
危険を慮ったとき、中嶋は「警察を呼ぶよ」と脅すことにしていている。威嚇だけではなく、本当に一〇〇番することもある。
「こっちはやまましいことはしていないし、正当業務行為をしているので、警察を呼んでも問題ないというか、逆にありがたいこともあるんです」
駆けつけた警察官は、互いから別々に事情を聞く。警察官に「実は探偵で、相手には内緒にしてください」と頼めば、対象者に正体を明かすことなく済ませることも可能なのだ。トラブルになるようだったら、警察官に介入してもらったほうが面倒も少ない。
「ただ正体がバレると、やっぱりバツが悪いですね。依頼者が奥さんだとわかるので、夫婦の関係がより険悪になりますし、「お前、俺が稼いだ金で何やってんだ!」となったりもしますから」
対象者にバレると警戒心も強まるので、今後の調査で証拠を押さえるのが難しくなると思ったが、そうでもないらしい。三〇分も押し問答を繰り広げた先ほどの対象者は、その後浮気相手と合流してホテルに入っていったそうだ。男というのは、発覚しようがしまいが、結局は欲望に負けてしまう悲しい生き物なのである。
探偵になって半年が経った頃、中嶋は特殊機材を扱う機材班に配属された。「お前、こういうの好きだろ?」と誘われたのだ。
機材班という部署は現在勤めている探偵社にはないが、一五年ほど前は重要な部署だった。当時はデジタル画像やデジタル動画の証拠には、まだ懐疑的な時代だった。デジタルデータだと、偽造や改ざんができるため、証拠として疑いが残るといわれていたのだ。今は、相手側がデータ改ざんの根拠を示さない限り、その証拠能力は認められている。改ざんされたと主張する相手側に立証責任が生じるのである。
二五年ほど前は、裁判所で証拠として採用されるのはアナログのフィルムだけだった。写真のネガフィルム、ビデオの8ミリフィルムであれば、改ざんのしようがないので、揺るぎない証拠となる。
その探偵社では、CCDカメラで撮影したデジタルデータを直接VHS(カセットテープ)に録画できる機材を持っていた。大手探偵社とはいえ、社内には四台ほどしかなかったため、他の探偵から連絡を受けた機材班が、不貞が行われている現場(ラブホテルの前など)に駆けつけて、車の中から撮影を行っていた。防犯カメラと同じようなCCDカメラを車のダッシュボードに置き、モニターやデッキといった機材は後部座席に積んでいた。
また中嶋は、盗聴器の発見調査も専門にしていた。盗聴器は受信機から受信機に電波を飛ばすもの、室内などに仕掛けられた発信機が拾った音声を特定の周波数の電波に変換し、同じ周波数にセットされた受信機で録音。仕組みはラジオと同じである。調査する側の受信機も、(スキャンすることで)盗聴器が仕掛けられているか調べることができる。
盗聴器に興味を持ったのは、高校生の頃だった。受信機を購入した中嶋青年は、盗聴器を探すために、受信機を片手に自転車で街中を走り回った。
「神奈川県の平和な街だったので、タクシーや飛行機の無線を拾うくらいでしたね。残念といったおかしいですが、盗聴器の電波はなかったです」
盗聴器の発見調査は、探偵に依頼されることが多いが、「探偵業法の届け出が必要ない行為であるため、本来は誰でもできる。低価格で盗聴器発見機を購入できるが、それでも探偵社に「盗聴器が仕掛けられているかもしれない」という調査依頼がくる。ところが、その依頼のほとんどが依頼者の被害妄想なのだという。
依頼者が外出して帰ったら、家の中のものが移動していた(と本人は思った)。または、盗聴器ダイニングテーブルに置いてあったものがなくなっていた(と本人は思った)。依頼者は、「盗聴器が仕掛けられていて、自分が出したのを見計らって、誰かが家の中に侵入しているに違いない」と本気で思っているのだ。
中にはパラノイアはいか、と疑われる依頼もあった。パラノイア(偏執病)とは、不安や恐怖といった感情が強くなりすぎて、常に他人が自分の悪口をいったり批判をしているなど、異常な妄想を抱く精神疾患である。
依頼者が家中を歩いていると、女子高生が会話をしているのだが、彼女たちは依頼者の悪口をいっている(と本人は思っている)。「家に盗聴器があって、それを女子高生たちが聞いていて、私の悪口をいっているのだ。だから、盗聴器を探してほしい」という依頼である。本人は真剣に疑っているのだが、当然ながら家の中を探しても盗聴器は見つからない。
「調査自体は三〇分くらいで終わるのですが、後でカウンセリングみたいになってしまいますね。実際の盗聴器と受信機を見せて、盗聴器が仕掛けられていれば、この受信機が反応しますよ、みたいにデモンストレーション的なことをして説得します。論理的に客観的に盗聴器が仕掛けられていないことを証明するしかないですよね」
核心を求めて依頼してくる人も多い。「たぶんないと思うのだけど、もしかしたら……」という疑いが、払拭できずに依頼してくるのだ。プロの探偵が調査して出てこないのであれば、一〇〇パーセントではないけれど、安心が得られる。中嶋も「盗聴器はありません!」とキッパリ断言するようにしている。
「それでも納得しない人はいますね。あなた達の来るのがバレて、電源を切られているだけっていいる人もいます」
他にも、ストーカーに見られているという人や、壁に画鋲で刺した穴があり、そこにカメラが仕掛けられていて、その映像がネットに流出しているという人もいたそうだ。
まれに盗聴器が発見されることもあるが、それは身内が仕掛けたケースがほとんどだという。自分が会社に行っている間に妻が浮気をしていなか、妻が電話でどういう会話をしているのか、夫が気になって仕掛けているケースもある。ストーカー夫なのか束縛夫なのかわからないが、愛情がすぎると恐怖に変わるのは、結婚した後も変わらないようだ。
中嶋は、これまでに一度だけ盗聴器を見つけたことがない。すべて被害妄想による依頼ばかりだった。
「極端な話、身内にICレコーダーを隠しておけばいい話なので、わざわざ盗聴器を仕掛ける必要ないですからね」
テレビや雑誌、ネットの情報では、盗聴器は年間三〇万台から四〇万台も販売されているのか。販売調査の元データが見当たらないので怪しいが、事実ならそれだけの数の盗聴器はどこに潜んでいるのか。想像すると怖い話である。被害妄想にかられてしまう気持ちもわからなくはない。
中嶋の探偵人生は、順風満帆に思われた。想像していたとおり、本で予習したとおり、探偵の仕事ぶりにやりがいも面白さも感じていた。探偵の仕事は中嶋には天職だった。
ところが、二〇〇七年に施行された「探偵業法」によって、中嶋は会社を辞めることになった。
探偵になってから、まだ一年半しか経っていなかった。
中嶋が勤めていた大手探偵社は、社員である探偵を解雇して、外注として仕事を依頼する経営スタンスに切り替えたのだ。つまり、探偵たちは個人事業主のフリーになれというのである。その理由は、探偵業法から会社を守るためだった。社員が違法行為を犯した場合、その探偵社は営業停止命令・廃止命令などの行政処分を受ける可能性がある。外注先であれば、たとえ違法行為をしても、その探偵社は処分されないと考えたのだ。社員は駒扱いされるようなものだが、他にも多くの探偵社が実際に取った対策だった。
先輩探偵たちは個人事業主になることを選択したが、中嶋には自信がなかった。
「一年半ほどやっていたのですが、まだ不安があって……。一〇年も一五年もやっている先輩に比べて技術も経験も不足しているので、自分は未熟だと思ったんです」
探偵の修行が足りないと感じた中嶋は、他の探偵社に転職する道を選んだ。その当時、探偵学校を経営している大手探偵社があり、中嶋はその探偵学校に入ることにした。授業料は二〇万円もしたが、この探偵学校を卒業しないと経営している探偵社に入社できなかったため、仕方なく学校に通うことにしたのである。
学校の授業は、全一八回行われた。小さな会議室で、探偵業務に関係する民法を学んだり、探偵業務の概要説明を受けた。他に、先生を追う尾行実習などもあった。しかし、探偵経験がある中嶋にとって、学ぶことは何一つなかった。
その当時の探偵学校は、調査の仕事だけではなく、学校の運営でも収益を上げようとしていた。人材不足の解消を図るため、人材の囲い込みの意味もあった。収益と人材確保を兼ねた一石二鳥の経営戦略の方は、学校運営により力を入れ出した探偵社もあった。探偵学校の数も増えていった。
ひどいところでは、実習だと偽って生徒を現場に駆り出し、調査の頭数にしていたところもあったそうだ。依頼者から金を取り、調査員(生徒)からも金を取っていたわけである。だが、数日間の授業だけで即戦力になれるはずもなく、ほぼ素人の新人が探偵の世界に溢れ出ることになる。
中嶋が通った学校の探偵社も全国に支社を増やして、新人探偵の受け皿を用意しようとしたが、支社の数が新人探偵の増加に追いつかないばかりか、新人を指導・統率するベテラン探偵も不足し、思うように全国展開が進んでいなかった。探偵学校で金を集めることができても、その後の就職まで面倒を見られなくなったのだ。次第に探偵学校の需要も減り、今では細々と学校を運営している探偵社が数社ある程度になっている。前は、探偵学校を支払っていたため、学ぶことは少なかったが、中嶋は探偵学校の卒業を最後まで受講した。しかし、その探偵社は就職しなかった。遠方の勤務地しか空きがなかったのもあるが、その探偵社の能力に疑問を持ったのも理由だった。中嶋は自分ではまだまだと思っていたが、それでベテランの探偵ばかりを見ていたからでもあった。この探偵社は素人に毛が生えた程度のレベルに見えたのだ。講師を務めていた現役探偵は、中嶋からすれば経験も技術も物足りなかった。他社を見たことで、前の探偵社がプロの探偵集団であることがわかったのだ。
中嶋が辞めた就職先は、創業して間もない都内にある探偵社だった。少なからず自身の探偵スキルに自信を持った中嶋は、自分の能力を発揮できそうな新しい探偵社に活躍の場を求めたのである。
最初に勤めた探偵社は歴史のある会社で、細かいマニュアルもあった。車で尾行する際は、必ず助手席を空けなければいけない。男二人が運転席と助手席に座って、長時間止まっていたら、怪しまれるからだ。マニュアルには、先輩探偵が蓄積してきた経験と知恵がいくつも書かれていた。探偵個人に対しても厳しく、少しでも暇があれば、尾行の訓練をするように厳命されていた。何かミスをしたら、始末書を提出するのだが、上司が納得するまで何度も書き直しをさせられた。
「そういうのは嫌じゃなかったんですよ。むしろ警察っぽい感じで好きでした。書類とかいっぱいあって……。だから本当は辞めたくなかったんですけどね」
新しく就職した探偵社は創業したばかりで、まだマニュアルもなかった。厳しいことはいわれず、調査に関してもガツガツしていなかった。

「私の知っている探偵とはちょっと違うというか……。新しい探偵というのか、ラフな感じがしましたね」
厳しい環境で腕を磨いてきた中嶋にとっては、生ぬるい環境だったが、自分が変えていけばいいと思っていた。探偵能力はこれからの探偵社だったが、集客力は優れていた。女性の相談員を揃えて、柔らかいホームページのデザインに変え、依頼人の心理的なハードルを低くした。その効果もあり、女性の依頼者が急増した。以前の探偵社も含め、多くの探偵社のホームページは堅苦しく、男っぽい印象のものばかりだったのだ。
今でこそ男性からの依頼も増え、依頼者の比率は女性と男性で六対四くらいといわれているが、ほんの二〇年ほど前までは九対一で、圧倒的に女性からの依頼が多かった。ターゲットを女性に絞る戦略は正しかったわけである。
ある女性から浮気調査の依頼があったのだが、同時期にその女性の母親からも「娘の浮気を調査してほしい」という依頼があった。母親は娘から相談を受けていたのだろう。親子ですり合わせたわけでもなく、両者とも探偵に頼むことにした。それぞれが調べて検討した結果、依頼したのが同じ探偵社だったのだ。それほど、この探偵社の集客力、宣伝戦略のレベルが高かったということである。
依頼の数も多くなると、探偵の負担が大きくなる。十分な人員を割けなくなり、本来であれば車三台で調査するところでも、車一台になることもあった。二人一組で動くのが基本ではあるが、一人で調査することも多かった。
「最低限でやるというスタンスでした。それでもうまくいくというか、うまくいかせるしかないですから」
ミスも多かったようだが、出入り口が三カ所あっても、探偵が一人だとメインの出入り口で張るしかない。当然ながら見落としも多く、対象者を確認できずにその日の調査が終わってしまうケースもあった。当時の調査では、六稼働を基本としていた(一稼働は六時間)。一回の調査だけでは証拠をあげることは難しく、まだ六回調査したほうが、その分の調査費用を請求できる。つまり探偵は、六回の調査で結果を出せばいいのだ。一回の調査で成果が出せず、それが探偵のミスであっても、誰気にしなかった。
「なので、手を抜こうと思えばいくらでもさぼれますから。昔の話ですが、現地に着いたら最初だけ映像を撮って、ずっと調査をしたように装って、パチンコをしていくる人もいました。だからこそ、探偵の仕事は、高いモラルが求められるんです」
現場の探偵が一人来るはずなのに二人か来ていなかったり、最初に一時間ほど撮影した後で時間のデータをいじって、三時間張り込んでいたことにする探偵もいた。中嶋は怒った表情をしながら「それは違うと思うんですよ!」と力強く語る。
「だって、面白くないじゃないですか。結局のところ、そういうことをする人は辞めていくんです。私はずっと探偵を続けていたかったので、そういう不正は絶対にしたいないと誓っていました。探偵の仕事は拘束時間が長いですが、極端な話、出てきてやつを追えばいいだけなので、流れ作業のようなものです。他の仕事のように、ノルマがあるわけではないし、クリエイティブな発想をするわけでもない。企画書を書いたり、根回しをする必要もない。時と場所が違うだけで、やっていることは一緒なんです。他の仕事のほうが、よっぽど大変なはずです」
同じことをずっと続けることは、中嶋にとって苦ではないようだ。流れ作業とはいえ、突発的なことは起こる。特に最初は予測できないことも起きるし、見失うことも多い。対象者が徒歩で移動するのか車なのか、わからない。どちらでも対応できるようにしていていも、知人の車に乗る場合もあれば、自転車でスルスルッと人混みを抜けていく場合もある。徒歩で駅に向かっていると思えば、急にタクシーに乗る場合もある。いかなる状況にも備えないといけない。話を聞いているだけでも、流れ作業とは思えない緊張感だと想像できる。
尾行にしても、対象者がバスに乗った場合、極力一緒に乗らずに車で尾行するそうだ。住宅街のバスだと、見慣れた人ばかりのことが多い。名前は知らないし、挨拶をしたこともないが、顔は毎日のように見かける。その中に、見慣れない人物がいると、印象に残りやすい。対象者の脳裏に一度焼き付くと、その後の尾行が難しくなる。「あいつ、前も見かけたな」となって発覚に至ることもあるのだ。
同じように、対象者が乗り合いで会社を出てきたとき(初動)も、印象に残らないように注意しなければいけない。玄関を出て、そこに見知らぬ男がいたら、「なんだ、あいつ」と思うのが普通だ。玄関から見えにくい位置で張り込みをすることが基本なのだが、こちらも見えているということは、向こうからも見えるということである。見られていないと断言することはできない。
大きなマンションで出入り口が二カ所あるときは、二人の探偵でそれぞれの出入り口を張り込む。対象者が出てきたほうの探偵Aは、もう一つの出入り口を張っていた探偵Bに連絡し、服装などの特徴を伝えて、探偵Bが尾行を開始する。探偵Aは服装を変えて探偵Bと合流して一緒に尾行するが、電車やエレベーターという接近しなければいけない状況では必ず探偵Bが近づく。そのくらい対象者と顔を合わせる可能性がある場面では注意が必要なのだという。
探偵同士のやり取りは、以前は無線で行われていた。中嶋の探偵社では、電話も繋ぎっぱなしにしているそうだ。かけ放題のプランだと通話料はかからない。スマホにイヤホンマイクを繋いでおけば、音楽を聞いているようにしか見えないので、怪しまれる可能性は少ない。
三人で張り込みをしていたとき、対象者が出てきたのだが、二人とも「他の誰かが見ているだろう」と思ってしまい、誰も見ていなかった、という間抜けなミスもあった。張り込みが長時間に及ぶと、そういった初歩的なミスも起こるのである。
対象者を見失う(失尾という)のにはパターンがあるそうだ。
「失尾するシチュエーションは、だいたい静から動に変わるときなんですよ。初動もそうですけど、例えば電車に乗っているとき、これは静ですよね。駅に着いて人混みに紛れて動き出したら、見失っていただいうことがよくあります」
同じ探偵がずっと張り込みを続けているわけではなく、途中で別の探偵に交替することもあれば、途中から新たに参加することもある。現場の状況を引き継いだり、説明したりしていると、監視の目が緩んでしまい、失尾に繋がるという。
中嶋が尾行する対象者も尾行するよりも、女性を尾行するほうが気を使う。
「男性だったら、買い物をするとき、何を買うか決めていることが多いですよね。でも、女性は店に入ってから考える人が多いのか、どうしても滞在時間が長くなってしまいます。デパートでもコンビニでもそうですが、店内をぐるぐる見て回っている人は、尾行しにくいし、発見しやすい。凝視していると、第六感が働くのか、相手もこっちを見てくることがあるんですよ。『不思議なものですが』そのため、中嶋は尾行している意識を薄めるようにしているそうだ。「追うぞ、追うぞ」という意識があると、相手も気付きやすくなる。たまたま目的地が一緒なだけ、くらいの意識で尾行することを心がけている。
道を歩いていて、急にUターンをしたり、方向を変えたりする行動も、女性の対象者に多いそうだ。女性のほうが方向音痴が多いとは一般的にいわれている。「間違えた!」となって動きを変えたとき、見られるリスクが最も高い。
「静から動」と同じように、変化が起きたときは警戒が必要だ。ゆっくり歩いていたのに、急に早歩きになると、不自然ではあるが、こちらも歩くスピードを上げないといけない。変化に気付かないと、対象者の失尾に繋がる。変化があれば、対象者との距離の取り方も変わる。駅で急ぎ出したら、駆け込み乗車をする可能性も高いため、距離を詰めないといけない。対象者が警戒している場合、駆け込み乗車をすると、接近するのは逆効果になってしまう。その判断が難しい。
「降りない駅で一旦下車して、次の電車に乗ったりするのも犯罪用語で点検作業っていうんですよ。犯罪者がよくする行動なんですが、対象者も同じような動きをする傾向があります」
特に相手を尾行している場合、対象者の尾行行動(点検作業)はわかりにくい。相手が人間であれば、後ろを振り返ったり、キョロキョロしていたりすると、警戒しているのが一目瞭然だ。一方、車の後だと、見えているのは車体という物体なので、警戒感が伝わってこない。車を路肩に止めても、それがただの路線なのか、警戒によるものなのか、判断が難しい。電話をするために停車しただけの可能性もある。車の中にいる人間の表情や姿までは見ることができない。
現在の中嶋は、さらなる高みを追求すべく、別の探偵社に転職して幹部社員として勤務している。その会社で中嶋は、探偵のモラルとスキルを向上するために、社内のマニュアルを作成していて、失尾を防ぐための注意点などをまとめている。そのため、自分のことだけではなく、社内や業界全体など、広い視点について考えているようだっだ。話が自然と大きくなってくる。中嶋の声と共に、「私が問題だと思っているのは……」と切り出したところで、中嶋のテンションが一番に上がり、探偵業の問題点について熱く語り出した。
「日本の民法って、欧米よりも一〇年遅れている、と揶揄されています。欧米だったら家を張り込むのに裁判所の許可が必要なんです。それくらい個人のプライバシーを大事に守っているのですが、日本だとあってないようなもの。顔写真も個人情報じゃないですか。探偵は家族でも知らない個人情報を覗き見るわけですから、本当にこれでいいのかなって」
依頼者である妻は、自分の知らない夫の姿を見たい。浮気相手と会っているときの夫の表情を見てみたいのである。依頼者の要望に応えるために、探偵はプライベートなところまで踏み込むことになる。浮気相手の顔、名前、住所、職業なども克明な個人情報である。中嶋は日々、探偵業務をこなしている中で、それを扱う探偵たちのモラルに疑問を抱くようになった。探偵に対して並々ならぬ思いを持っている中嶋だからこその疑問である。
「日本の探偵の仕事は、ほとんどが浮気調査なんですけど、欧米の探偵は経済犯罪や保険金詐欺の調査をしたりするんですよ。ほぼ警察みたいなものです。なのでライセンスも必要ですが、探偵の社会的地位が高いんです。イギリスだと軍隊や警察の出身者が探偵になることが多いみたいです」
日本の探偵には、どこかダーティなイメージがつきまとう。詐欺のようなことをしているのではないか、違法行為をしているのではないか、という印象が拭いきれない。消費生活センターへの相談も多く、インターネット上で相談無料と謳いながら高額な請求をしてきたり、アダルトサイトとのトラブルを解決するといいながら、実際は業者の所在地を調査しただけで何も解決してくれないといった相談が寄せられている。
離婚の概念が違うことも、欧米との差を生んでいる。日本では、相手が離婚に同意しない場合、浮気やDVなどの証拠を示さないと離婚が成立しにくい。昔よりましになったとはいえ、今でも日本の社会では離婚を回避する風潮が残っている。浮気をしているのに、離婚はしたくないという身勝手な男が多いのも日本の特徴だろう。
一方、欧米では有責主義(離婚を繰り返している人も多く、離婚しても両親ともに子どもの親権があるため、日本のように親権を巡る争いは少ない。そのためか、欧米では浮気調査はほとんどないそうだ。
二〇〇七年の探偵業法施行時に、中嶋は探偵の認知度が上がることを期待した。欧米の探偵のように経済犯罪や保険金詐欺といった調査が増えることを願った。しかし、何も変わらなかった。
「新聞やテレビでも、探偵業に対して広告規制がかけられています。新聞やテレビで探偵の広告やCMを流したら、探偵のイメージも変わってくるのでしょうけど……」
欧米の探偵の収入はそう多くないが、地位は弁護士に近いという。個人情報にアクセスできたり、通信の開示ができなかったりと、探偵の特権もあるそうだ。
「探偵業界が、次の段階になってほしい。というか、なるべきだと思います。探偵に依頼したいとなったとき、誰でも探偵社で大丈夫といえばここだよね、とわかる程度にはならないといけない。今は、依頼者はどこに依頼したらいいかわからず、ネットで検索して上位に表示された探偵社に頼んでいる状況です。どういう調査に強い探偵社かわからずに依頼しているわけです」
中嶋が危惧しているのは、探偵社の二極化だ。潤沢な広告費がある大手探偵社に依頼が殺到し、中小零細探偵社はその下請け、孫請けにならざるを得なくなる。大手に零細の二極化が進めば、探偵としての生き残りが厳しくなり、欧米のように個人で活躍する探偵が出てこなくなる。中嶋は探偵業界全体の底上げを願っているのだ。
「この業界って小さな業界なのに、ライバル社の探り合い、足の引っ張り合いみたいなことも行われています。例えば、依頼者のフリをして他の探偵社に見積りをお願いするなんてこともあります。どういう料金体系なのか、どういう接客対応なのか、探りを入れるわけです」
スパイを送り込む探偵社もあるという。他社に探偵として応募し、ライバル会社のマニュアルや調査手法、集客方法、依頼者情報などを盗み出す。まさに探偵らしいといえるが、悪しき慣習に違いない。
「こっちも新しく応募してきた人がスパイじゃないかって、最初は疑ってしまいますね。試用期間中の様子を見て、大丈夫だと判断してから採用するようにしています」
どの探偵社に依頼すべきか悩んでいる依頼者の場合、何社かに見積りを取ることもある。ときには百万円を超える費用になることもあるので、慎重になるのは当然のことだろう。ところが、ほとんどの探偵社は「あそこは〇〇だから、やめておいたほうがいい」といった同業者の悪口をいう。探偵業界は品格を下げてくることになるので、業界にとってはマイナスでしかない。
「お互いに切磋琢磨したらいいのに、なんか醜いですよね。探偵社を辞めるときも、同業他社には転職しないという誓約書を書かされます。法律的には何の意味もないんですけど」
日本調査業協会が発表している探偵・調査業務の市場規模は、約二〇〇〇億円。これが多いのか少ないのかはよくわからない。警備業界の市場規模は三兆円(全国警備業協会調べ)、葬祭業界の市場規模は一・八兆円(矢野経済研究所調べ)、クリーニング業界は三四二五億円(日本クリーニング新聞調べ)、サバイバルゲーム業界は二〇〇億円超(矢野経済研究所調べ)だ。
他の業界と比較してみると、探偵業界の規模は決して小さくないように見えるし、単価が高い割に小さいともいえる。ちなみに探偵業界の市場規模を五七兆円ともいわれている。
「二〇〇〇億円をライバル会社と奪い合っているわけだが、探偵業界はもっと規模を大きくすることができる、と中嶋は信じている。
「もっと探偵を利用してもらえるようになったらいいと思います。浮気調査ばかりではなく、さまざまな調査ができるので、マーケティング的なことも可能でしょうし、ライバル店の潜入調査なんかもできます。探偵という存在が身近になってほしいです。すごい業界なのに、もったいないですよ」
法整備も必要だろうが、保険調査員が行なっている交通事故の原因調査などは、すぐに能力を発揮できそうだ。ビジネスに目を向けると、実態を伴った市場調査もできるだろう。上辺だけではない顧客の本音に食い込む調査もできそうだ。人間の本性をよく知る探偵だからこそ思いつく新しい商品やサービス、販促方法もあるかもしれない。銀行からの依頼で融資先の企業調査も可能だろうし、証券会社からだと投資先の企業調査もできる。その他にも空き家の調査や相続絡みの調査、補助金の不正受給の調査、税務調査、民事裁判の証拠集めなどでも戦力になりそうだ。
社会的信用が高まれば、欧米のように警察の仕事を補助できるかもしれない。そのためには探偵側の努力も必要である。各探偵に高いモラルが求められるし、世間のイメージを変えていかなければいけない。
中嶋がいうように、探偵が活躍できそうな場面はいくらでも思いつく。まさに映画やドラマ、小説や漫画で活躍する探偵に近づくし、探偵になりたい人も憧れる子どもも増えそうだ。
「探偵って、人気最古の職業の一つともいわれているそうです。もちろん探偵という言葉はなかったでしょうが、〝何かを調べる〟という仕事は昔からあったはずです。人間の奥深さに入り込める職業ですからね。そのためにも知名度が上がって、気軽に調査の依頼をしてもらえるようになるといいんですけどね……。いや、そうしていかないといけないんだと思います」
探偵の雇用環境にも問題があるという。現在、中嶋が勤めている会社は正社員の探偵を雇い、自社のみで調査を行っている。一方で、探偵社は往々にして、正社員として雇わないところも多い。外注の探偵は、出来高制になるので収入が不安定になる。仕事に対する対価として見合わず、将来の不安が蓄積して辞めていく者も多いそうだ。責任を外注の探偵に負わせているので、ブラック企業に分類されてもおかしくない。
探偵社によって外注のギャランティーは異なるが、八時間の調査でだいたい三万円。経費込みだそうだ。それなりにいい金額に思えるが、毎日仕事があるとは限らない。他の仕事をしながら、依頼があるときだけ探偵をする〝兼業探偵〟や〝副業探偵〟も多い。一方で、探偵が本業だった人が、収入が不安定であるために同業をしなければいけないこともある。いつの間にか、副業が本業になって探偵を辞めていく人が新人にもいるそうだ。
それでも探偵を続けていくことは大変なのだ。中嶋が、六年も探偵を続けられたのは、探偵にそれほど〝探偵を誇り〟も強く持っていたからだろう。話を聞いていると、探偵業が痛いほど伝わってくる。自分のことだけではなく、業界全体のことまで考えているところも好感が持てる。話に引き込まれているうちに、いつの間にかまわりの目も気にならなくなっていた。中嶋の真剣な眼差しを見ていると、小さなことを気にしていたこちらが恥ずかしくなってくる。
好きな仕事であっても、しんどさを感じることもあれば、やる気をなくすこともある。どんな人間でも常に全力で仕事に取り組めるわけではない。探偵愛の強い中嶋であっても、仕事に飽きがくることもあるだろう。探偵を辞める理由で最も多いのが、〝飽きた〟という理由だという。対象者や場所は違えども、基本的には張り込みと尾行で、人の行動を調査しているだけなので、同じことの繰り返しだ。飽きてくるのも理解できる。
それでも中嶋は探偵の仕事にやりがいを感じている。
「これほど人から感謝される仕事もないですからね。私のように学歴も何もない人間でも、今日から探偵を始められるわけです。そんな職業って、他にはないんじゃないですかね」
直接依頼者と会う機会は少ないが、涙を流しながら感謝していたよ」と聞かされたこともある。依頼者の人生に介入し、感謝されること。それが中嶋のやりがいになっている。弁護士や医師と同じように感謝される立場なのに、難しい資格は必要ない。人から感謝されることの高揚感は何度味わってもたまらない。中嶋は、新人探偵に「探偵の素晴らしさ」と「探偵のやりがい」を語っているそうだ。きっと松岡修造のような熱弁を振るっているのだろう。
「なんてもそうかもしれませんせんが、好きでないと仕事って続かないですよね。たまたま私は好きな仕事に出会えただけで、それはすごく幸せなことです。だから、新人にも探偵の魅力を伝えたいですし、一人でも多くの人に探偵のことを知ってほしいです」
中嶋は、人々の暮らしの中に探偵が身近な存在になる理想を描いていた。自分が好きなものを突き詰め、人が熱く語ることで、その魅力を伝えていく。カメラがあっても、探偵という職業があっても、それは同じだ。
中嶋少年は、戦車や戦闘機のプラモデルについて友だちと熱く語る子どもだったに違いない。サバイバルゲームの面白さを熱弁しては、友人を仲間と引き入れていたのだろう。純粋な心で熱い情熱を持ったまま大人に成長し、まっすぐに己の道を突き進んでいる。ときに息苦しく思われることもあるだろうが、その思いが純粋なだけに、一途そうなだな、と共感する人も多いのではないだろうか。
中嶋を取材して私は「探偵をやってみたい」という気持ちになったし、探偵に依頼することがあれば、中嶋を指名したいとも思った。最初に会ったときよりもほんの二時間ほど前だが、中嶋の身体が大きく見えた。ただでさえ大きな身体が、頼もしさもプラスされて、一回りも二回りも大きく感じられたのだ。
そのとき、中嶋の携帯電話が鳴った。仕事は休みだったのだが、社長からの電話のようだ。「ちょっと出てもいいですか」と断って電話に出た中嶋は、先ほどまでの威勢のよさはすっかり消え、頭をペコペコ下げながら「す、すみません」と謝っていた。詳しくはわからないが、どうも連絡ミスがあったようだ。ピンと伸びた背中は丸くなり、ハキハキとした口調もたどたどしいものに変わっていた。
その姿には愛嬌があり、親近感もあった。中嶋正則、三六歳、まだまだ修行中である。