第一章 名探偵の条件
2025年11月19日
探偵はここにいる
森 秀治
新宿歌舞伎町で彼が本格的に動き出すのは、ビルの間から望む小さな空が鉄のような暗闇に包まれてからだ。まだ全体が見えていない街は、表面的な陽気さに浮かされているようだった。賑やかではあるが、すべてが軽薄でどこか危うい。少し触れるだけで、バランスを崩すような狂気を秘めているようにも感じる。仮面をかぶった登場人物たちが自分の素顔や欲望、衝動や偏執を隠しながら、役に成り切っているのではないか。薄い皮を一枚剥げば、まったく違う顔が現れるのではないか。恐ろしくも優しい素の顔が…。そう勘ぐってしまうのは、新宿歌舞伎町という街が持つ甘い蜜のせいかもしれない。
私たち人間も同じだろう。仕事の顔、家庭での顔、友人とはしゃぐ顔、異性の前で格好つけた顔、どれが本当の顔なのか、どれも違うのか、自分ですらわからない。表だと思っていたものが裏になることもある。裏のさらに裏があることもある。隠ごとや下心があるというだけでなく、修羅場でしか出てこない顔に、その人の本質が現れるのだ。
秘密の多い街を背にして、スマホで地図を確認しながら目的のビルを目指した。
看板で会社名を確認し、何の変哲もない雑居ビルに入る。エレベーターに乗り込んで四階で降りると、右と左にそれぞれ扉が一つずつあり、一つに「Y探偵社」と書かれたプレートが貼り付けられていた。一度大きく息を吸ってから、インターフォンを押す。
実際よりも重そうな扉の中から現れたのは、中肉中背で頭を丸刈りにした男。この男が探偵、真鍋心平である。
案内された会議室は、想像していたよりも殺風景だった。普通の会社の会議室と同じか、それよりもモノが少ないのではないか。テーブルの上には、小さな観葉植物が一つ置かれ、筆記用具とカレンダーといった必要最低限のものしかない。ティッシュが置かれているのは、泣き出す依頼者もいるからだろうか。室内にはコート掛けと雑誌のラックがあり、ラックには探偵業に関する雑誌や冊子が並んでいる。壁には、「探偵業届出証明書」が掛けられていた。
調査報告書を見せながら、真鍋心平は探偵の仕事について話してくれた。
依頼者の女性は三〇歳で専業主婦。どこにでもいる普通の主婦とのことだが、上品な身なりから、育ちのよさが窺える。地味ではあるが、着心地のよさそうな衣服を丁寧に着ている。長年大事に使用すると、そんな暮らしぶりが透けて見えるようだ。社会人経験がほとんどないようで、少しおっとりとした雰囲気だが、目の奥には知的な光を覗かせていた。
依頼の内容は、夫の浮気調査。探偵社に持ち込まれる依頼のほとんどが浮気調査だそうだ。一昔前は夫の浮気を疑う妻からの依頼ばかりだったが、ここ数年は夫からの依頼も多いという。それに、女性の浮気が増えているのだろう。共働きが増えさせたせいではないか、と真鍋は説明した。女性の社会進出は歓迎すべきことだが、思わぬところで副作用が生じる。すべての物事にいえる、世の中の真理かもしれない。
結婚して一〇年以上経つが、これまで浮気を疑うこともなかったという。ところが、三カ月ほど前から夫の様子が変わった。毎週木曜日だけ、帰宅が遅くなったのだ。他の曜日は今までどおり早めに、木曜日だけが終電近くになる。「毎週理由を聞くと『毎週木曜の午前中に会議があり、木曜中に資料を作成しないといけないのだ』と、いわれた。社会人経験の少ない依頼者でも『本当だろうか?』と訝しむほどであった。こういうときの女性の勘は鋭い。
夫のスマホも無造作に置いて、メールの着信も気にすることはなかった。面倒くさいといって、パスワードの設定もようとしなかった。今では、スマホを肌身離さず、トイレにも風呂場にも持っていく。妻に見られたくないという強い意志を感じるとともに、誰からの連絡を待っているようにも思われた。
それでも、大げさに考えないようにしていた。高校生の娘と中学生の息子がいて、家庭はそれなりに平穏である。穏やかな暮らしをかき乱すようなことはしたくない。自分の思い過ごしかもしれない、いや思い過ごしだと信じようとした。
ところが、決定的な出来事があった。木曜日の夜に、夫に電話をしたときのことだ。たいした用件ではなかった。金曜の朝に飲む牛乳がなくなったので、帰りに買ってきてほしいと伝えたかっただけである。メールで連絡することもあったが、気付かない可能性も考えて、その日は電話をしたのだ。
何度電話しても通じない。「おかげになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」というアナウンスが流れるばかりだった。以前、電話に出たことがあるので、夫の職場は電波が届かない場所ではない。
時間を置いて何度もかけてみたが、やはり結果は同じだった。徐々に不安になってきた。夫に何かあったのではないだろうか。安否の確認だけでもと思い、迷いながらも会社に電話をかけてみると、「〇〇さんなら、もう帰宅されましたよ」と事務的に返された。
毎週木曜は残業のはずが、夫は会社にいない。どこかで事件や事故に巻き込まれている可能性も頭をよぎったが、女の勘は「そうではない」と告げていた。
その日、夫は何もなかったように、いつもどおり終電で帰ってきた。
「今日電話したんだけど、かからなかったわよ」というと、「仕事中だから電源を切っていた」とうそぶいた。会社に電話したことまではいわなかった。
「依頼者の話を聞いただけで、その対象者が浮気をしているかどうか、一〇〇パーセントわかりますよ」
真鍋は坊主で、黒いスーツに黒いネクタイをしている。強面の風貌だが、白いワイシャツのボタンが弾けそうな腹に親しみやすい愛嬌がある。全身から口の堅そうな信頼感が漂ってくるが、目尻のしわに優しさの面影が映し出されているようでもあった。口調は丁寧だが、「一〇〇パーセント」という切る言葉に裏づけされない自信のほどが窺える。
「本当に一〇〇パーセントですか?」
意地の悪い質問にも、「ええ、まあ一〇〇パーセントでしょうね」と、考える間を置かず、顔色一つ変えず、即答。低いトーンでゆっくり話す真鍋の言葉には、底知れぬ説得力がある。長年の探偵生活の中で何千件もの浮気調査をしてきた経験だけでなく、持って生まれた資質のようなものも感じた。
今回の依頼は、真鍋には「間違いない浮気だ」という確信があった。夫は上場企業の管理職で、それなりの収入があるが、毎月の生活費を渡されるだけで、妻は正確な月給額を知らないという。
「こういうのが一番怪しいんですよ。浮気は、お金と時間に余裕がないとできないですから」
そうなのだ。浮気は金が必要なのである。
「夫婦共働きで財布が別だったり、この依頼者のように生活費として家庭に入れている場合も多いですね。小遣い二、三万円で浮気なんてできませんから」
依頼者の話を事細かに聞いた後、疑わしい木曜日に調査することになった。遅くなっても必ず終電で帰ってくるという話なので、調査が翌朝までかかることはなさそうだ。
木曜日の午後四時半。真鍋の部下の探偵たちが依頼者の夫の勤務先を張り込む。尾行する相手を対象者と呼び、最初の尾行対象者を第一対象者、もしくは業界用語で「イチタイ」と呼ぶ。
第二対象者に愛人がいた場合、その愛人を次の対象者になるので、呼び方は第二対象者、もしくは「ニタイ」となる。
今回の調査で依頼者の夫は、午後五時半頃に退社するということが分かっていたので、一時間は早めに現場に入る。事前調査で、出入り口は表と裏の二カ所あることが分かっていた。表には二人、裏に一人の探偵を配置。すぐにタクシーに乗り込む場合も想定して、車とバイクも待機。合計五人の探偵がイチタイを追う。
午後五時三〇分。イチタイが表口から出てくる。服装はいつもと同じスーツ姿だ。事前に得た情報せいか、探偵の目にはイチタイの足取りが心なしか軽そうに映る。表口の二人が尾行を開始。裏口の一人が後を追う。
イチタイは最寄り駅まで歩き、改札を通過。改札の際、探偵は必ず対象者の後ろに張り付く。間に一人でもいた場合、その人が自動改札機で引っかかると、対象者を見失ってしまうからだ。これは尾行の鉄則である。
午後五時五〇分。イチタイは電車に乗る。イチタイが乗った電車は、自宅に帰る方向とは逆だ。ますます怪しい。というよりも、もはや疑いは確信に変わる。
電車の中でつり革につかまっているイチタイは、スマホをいじり出す。浮気相手に連絡しているに違いない。探偵の一人がイチタイのスマホ画面をビデオカメラで撮影する。ビデオカメラは、探偵の必需品。基本は手のひらサイズのハンディカメラを使用するが、このときだけは別。指先に仕込んで使用する別仕様の超小型カメラで、スマホの画面を覗き撮る。
「今向かっているよ」
「早く会いたいね♡」
といったLINEのメッセージが鮮明に写っていた。ここまでくると、真鍋は依頼者に「もうやめておきましょう」と連絡することもある。真鍋は「依頼者がいちばん傷つかないで済む方法を選んであげたい」と語る。しかし、今回は依頼者が「最後までお願いします」と強く希望したので、調査は続行された。
撮影している画面を撮る技術は、スマホの画面に直接触れるものでも、平然とした顔でスマホの画面を撮影する。それがどれほどのリスクがあり、緊張感を強いられるのか、想像しただけでも心拍数が上がる。
イチタイは盗み見されているとは露知らず、顔が緩んでいるようにも見える。結婚してから二十数年来、すでに失われたかと思っていた恋愛感情が、第二の春が到来したのである。浮ついた気持ちでまわりが見えなくなるのは、人の男としてよくよく理解できる。自分が尾行されているとは想像すらしていないだろう。
満員電車で混み合っている場合、対象者のスーツの裾を握ることもあるという。特に通勤時間帯の山手線などで、人波に流されて対象者の反対側に押しやられたりすると、簡単に対象者を見失ってしまうのだ。
午後六時一五分。イチタイが〇〇駅で下車。改札を出たところで立ち止まって、あたりを見回している。イチタイの視線は、右に左に忙しそうに動き回る。時々左手に持ったスマホも視線で落とす。五分ほどすると、イチタイに近づいてくる女性が現れた。
探偵にとって、心が躍りする瞬間だ。これまで顔も素性もわからなかった、想像の中でしか存在していなかった浮気相手とのファーストコンタクトだからである。
「相手はどういう人なんだろうか?」
調査の約八割は張り込みだという。尾行には、見失ってしまうかもしれないという緊張感もあれば、対象者を追いかける高揚感もある。一方の張り込みは、ただ静かに待つだけだ。見逃したら終わりという緊張感はあるが、何時間も張り込むため、気が抜けるときもある。朝早くから夜遅くまで張り込みで何も動かない、ということもよくあるのだ。
「どのくらいの年齢か」といった、たわいのない会話が繰り広げられる。暇な時間があればあるほど想像を膨らませてしまうのは、人間の性かもしれない。
待ち合わせに現れた女性。これが第二対象者、すなわち「ニタイ」だ。ニタイは五〇代で、イチタイと同世代。当然ながら、ニタイの顔も動画で撮影する。
デジタルカメラが普及し始めた二〇〇〇年代前半に、探偵業界にもデジタルの波が押し寄せた。それまではアナログの一眼レフカメラが主役だった。いわゆるフィルムカメラなので、現像するまで、証拠の写真が撮れているか確認が得られなかった。目の前に確固たる証拠が存在しているのに、写真に収めることができなければ意味がない。暗いとシャッタースピードは遅くなる。大事な瞬間を撮り損ねたり、誰かわからないほど顔がぼやけたりすることも多い。感度の高いフィルム(ISO3200など)を使用しても、今のデジタルカメラほど鮮明には撮れない。
デジタルビデオカメラも小型化され、探偵は静止画ではなく動画で撮影することが多くなった。動画で撮影しておけば、どの場面も切り出すことができる。カメラを回し続けておけば、決定的瞬間を逃すリスクも減るのだ。
一昔前に比べて、今の探偵は道具に恵まれているといえるだろう。ただ、カメラの充電が切れたら終わりなので、予備の電池は何個か持っていく。ビデオカメラが故障したときのために、予備のビデオカメラも必要だ。万が一を想定しておくことも、探偵としての心構えなのである。
正面からの顔を撮影することが最優先ではあるが、それ以外にも全身を撮影する。特にカバンと靴を押さえておくのも、これまた探偵の鉄則だ。女性は化粧や服装が変わっただけで、見分けがつきにくくなる。その点、別の日の調査で服装が変わっても、カバンや靴は同じという女性は多い。相手を見逃さないための技術である。若いカップルの場合、漫画喫茶の個室に入ることも多い。そういうとき、脱いだ靴を確認すれば、個室にいるのが対象者たちかどうかわかる。
また、イチタイが左手の薬指に結婚指輪をしている画像も押さえる。というのも、ニタイに慰謝料を請求するとき、「結婚しているなんて、知らなかったんです……」といわせないため。結婚指輪をしていれば、気付かなかったという言い訳は成立しない。車で逢引する場合も、同じ理由で、車内にあるチャイルドシートなどの画像が重要な証拠になる。飲食店などで二人の会話を録音することもあるのだが、「今日はお客さん大丈夫なの?」といった会話を拾っておけば、見苦しい言い逃れができなくなる。
午後六時四八分。対象の二人が飲食店に入る。探偵の一人も店に入り、「待合わせなんですが、ちょっと中を見ていいですか?」と断って店内を確認。対象者の二人を発見するも、時間が早いためか店内はガラガラ。「まだみたいでした」と、飲食店を出る。近くの席を取り、二人の会話を録音したいが、今回は断念。不自然な席取りをすると警戒されるので、あまり無理をしない。
午後八時三三分。二人が飲食店から出てくる。二人は手を繋いでいた。当然ながら、その姿も撮影。どちらから手を繋いだかも確認する。なぜなら、どちらに主導権があるのかが垣間見られるからだ。女性のほうから手を繋いだならば、女性のほうが積極的だと推測できる。そういった小さな証拠を一つずつ積み重ねていくのだ。残念ながら今回は、どちらに主導権があるかまでは情報が得られなかった。
午後八時四〇分。
二人は、手を繋ぎながらラブホテルに入る。
ラブホテルの入退室は必ず撮影する。この二つがワンセットとなり、「不貞の立証」となるのである。ホテルに入った二人を確実に撮ったら、男女ペアで行動している探偵もホテルに入る(こういう状況を想定して、男女ペアで尾行するときにしている)。二人が何号室に入室したのかを確認するためだ。
ラブホテルには、玄関ホールにあるパネルで部屋を選ぶタイプがある。空いている部屋が点灯していて、部屋の雰囲気を伝える写真とともに、休憩と宿泊の料金が書かれている。希望する部屋のボタンを押すわけだが、それを見ていれば二人が入った部屋番号がわかる。パネルがなく受付で鍵を受け取るタイプのラブホテルでは、鍵に書かれている番号を盗み見たいが、対象者の死角に入って見えないことも多い。
今回の対象者たちは、三〇五号室のボタンを押してエレベーターに乗り込んだ。続いて、男女ペアの探偵も、空いている三階の部屋を押して、恋人同士のフリをしながら同じエレベーターに乗り込む。
同じエレベーターに乗り込んでも問題はないという判断になった。その場で警戒しなかったため、まさかのセンサーが、探偵には求められる。
三階で降りた対象者たちが三〇五号室の部屋に入るのを確認。完璧な証拠動画も撮れた。ここまではいる。まれに「ホテルの待合室でずっといただけで、強弁する対象者がいるからだ。ラブホテルに入っても、「何もしていない」と抵抗する人もいるが、それは社会通念上、苦しいを通り越して、見苦しい言い訳でしかない。裁判で争うことになっても、間違いなく勝てる。
午後一〇時四〇分。二人がラブホテルから出てくる。手は繋いでいない。少しは警戒心が出てきたのかもしれないが、抑えられない欲が満たされると、人は冷静になるものだ。本人たちも「こんな関係、いつまで続けるのだろう?」と少なからず思っているのかもしれない。
「いっときの快楽、まやかしの愛、刹那的な愛欲が、悪いものの多幸感……。偽物とわかっていても、誰もが根源的に求めてしまう。誰にとっても不幸だと理解していても、自らも真の関係を解消することができない。人間は保身の生き物で、一度手に入れたものを簡単に手放さない。満たされた欲と情けが渦を現す頃には、パンパンしなければいいか」という言い訳を自分として、同じ過ちを繰り返す。
午後一一時二三分。待ち合わせをした駅の改札口で、イチタイとニタイは別れる。探偵たちはニタイを尾行する。ニタイの素性を明らかにするためだ。浮気相手の名前や住所などを確認するまでが、今回の調査である。対象者の住所を突き止めることを、探偵業界では「宅割り」という。
依頼者の情報によると、イチタイはこのまま帰宅すると考えられるため、尾行を続ける必要がない。
探偵の仕事は、「追う」「撮る」「割る」に大きく分けられるそうだ。「追う」とは、調査対象者を尾行すること。「撮る」とは、証拠動画を撮影すること。そして「割る」とは、浮気相手の顔や名前、住所、勤務先などを割り出すことをいう。それぞれの優先順位は、案件ごと、状況ごとによって変わってくる。
午後一一時四八分。ニタイが〇〇駅で降りて、タクシー乗り場に向かう。駅から自宅までタクシーを使うのだろう。タクシーに乗ったり、家族が車で迎えに来たりすると、見失う確率が高いため、探偵はあらかじめ対策を講じている。
今回尾行している探偵は五人、男女ペアの二人は少し距離を取って一人、車とバイクに一人ずつ。
探偵たちは常に情報のやり取りをしている。やり取りの方法も時代によって変化してきた。少し前までは携帯電話にメールだったが、今は主にLINEである。チームを組む度にLINEグループを作成し、情報を共有する。今回の場合は、現場の探偵五人に司令塔の真鍋を含めたグループでやり取りをする。探偵同士のやり取りを見ていれば、現在どういう状況なのかがわかる。調査後に具体的な報告はするが、逐一状況報告をする煩わしさから開放され、対象者の尾行に集中することができるのだ。
対象者が向かっている方向と車もバイクもひた走るが、急行電車などに乗っていると追いつかないことも多い。それでも現地に向かうのは、探偵にとって〝諦める〟ことが「敗北」を意味するからだろう。探偵ほど、諦めの悪い職業はない。諦めたら終わりである。高額の調査費用を支払う依頼者のためにも、最後まで追い続ける真実がある。競り諦めなければ必ず突き止められるのだ。もっとも、車移動の探偵には、終電がなくなった探偵を拾って帰る、という実務的な理由もある。
ニタイに張り付いていた探偵から、バイクに乗っている探偵に向けたメッセージが届く。
「〇〇駅ですが、あとのくらいでしょう?」
「一〇分くらいです」
バイクはまだ到着しない。このままタクシーに乗られたら、見失う可能性が高い。そこで探偵の一人がニタイに話しかけて、時間を稼ぐことにする。
「あの、ちょっと道を聞いてもいいですか?」
どんなことでもいいので、バイクが到着するまで時間を稼ぐのだ。今回は相手が女性なので、女性の探偵が話しかけることにした。警戒されないためだ。ただ、一度同じエレベーターに乗り込んでいるため、疑われるリスクもある。先ほどと印象を変えるため、別のアウターに着替えて、キャップをかぶる。こういうときのために、探偵は予備の服を持ち歩いている。アウターの色が変わるだけで印象は変わる。目立たない服装が基本だが、系統や方向性の異なる服を用意しておく。そういう意味では、リバーシブルの服は探偵にとって便利なアイテムである。
午前〇時台。ニタイがタクシーに乗る。すでにタクシー乗り場の少し前で待機していたバイクが追いかける。
バイクが間に合わなかったときは、探偵もタクシーで追う。その場合、必ず対象者よりも先にタクシーに乗り込まなければいけない。マナー違反であっても、列に割り込んで対象者より前に並ぶ。先にタクシーに乗って少し前で待機しておき、後ろから対象者の乗り込んだタクシーを尾行するのだ。そうしないと、すぐにタクシーが来ないなどの事情で、対象者を見失ってしまう。テレビドラマのように、後からタクシーに乗り込んで「前のタクシーを追いかけてください」ということばない。ドラマなので都合よくタクシーが来てくれるが、現実の世界は都合よくできていない。
対象者が駅から自転車で帰宅する場合もある。バイクが追いつけずらいが、間に合わない場合は、コンビニの店員に頼み込んで、店員の自転車を借りられないか交渉することもあるという。信用してもらえないときは、自分の運転免許証を人質に置く場合もある。急いでいるからといって、その辺にある自転車を勝手に使うわけにはいかない。罪を犯すと、探偵社が営業停止になってしまうのだ。後ほど述べる探偵業法という法律に規制されている。
自転車が借りられない場合は、対象者の自転車の特徴を押さえておく。翌日、自転車置場から張り込み直すとか可能だからだ。
午前〇時一六分。ニタイは、タクシーから降りて自宅だと思われる一軒家に入る。部屋の灯りは、ニタイが帰宅する前からついていた。家族と一緒に暮らしているということだ。親と同居している可能性もあるため、ニタイが既婚者なのかは、この時点では判断できない。
表口の名前住所を確認して、その日の調査を終了。
見せてもらった調査報告書は、調査内容が写真とともに記載されている。対象者の詳細な行動だけでなく、浮気相手の髪型や服装、カバンのブランド名まで記されていた。立ち寄ったホテル名、コンビニで買った商品、乗車したタクシーのナンバーなど、ここまで記載するのかと驚いてしまうような内容まで報告されている。対象者の行動が編集された動画もDVDで渡すという。
「私は依頼者の代わりに見ているわけですからね。自分が依頼者だったら、詳しく知りたいじゃないですか。どちらから手を繋いだか、どんな会話をしていたか、というメッセンジャーのやり取りをしたいだけとか。安くない料金をいただいているわけですから、こちらも本気で依頼者の期待に応えなければいけないと思っています」
文字にするとかなり熱いセリフであるが、真鍋はいたって冷静だ。初対面ではビジネスライクに仕事をこなしているように感じたが、取材が進むにつれ真鍋の熱い深部を垣間見ることになる。
探偵社への依頼は浮気調査が大半を占めるが、その他に素行調査や行動調査もある。また真鍋の探偵社では、蓄積された経験やノウハウが必要とされる企業調査や採用調査を行っている。
企業調査とは、対象となる企業が不正を行っていないかなどを調べること。依頼者は、取引相手として信頼できるかどうかを心配する。また、本当に支払い能力があるのかといった資産調査なども行う。周辺関係者に聞き込みをすると、データ上には出てこない情報や噂を耳にすることもある。
企業の調査といっても、結局のところ代表者の素行調査になることが多い。
採用調査は、文字どおり、採用しようとする人を調べること。新卒採用の調査の場合、何百人も履歴書が送られてきて、「書かれている住所に本当に住んでいるのか調べてほしい」と依頼されたこともある。採用するための最低限のリスクヘッジなのだろう。
中途採用者の調査では、反社会的勢力と関係していないか、プライベートで問題を抱えていないかなどを調べる。特に役員候補を採用するときは、費用をかけてでも調べる必要がある。後々、会社の信用に大きな傷がつく恐れがあるからだ。
退職者を調査することもある。自社の顧客データなどを持ち出していないかを調べるのだ。医療機器販売の代理店は国内外の医療機器メーカーの商品を営業代行して販売している。代理店にとって、顧客データは社外秘の最重要機密であり、売上の生命線といっても過言ではない。そのため、独立したい退職者が顧客データを持ち出すことがあるのだ。顧客である医師からすると、どこから買おうと大差ないのであろう。そういう場合は、退職者を尾行して、誰と会っているか、どこに営業をしているか、社内に協力者がいないかなどを調べる。
それらとは別に、行方調査がある。家出した子ども、蒸発した夫、急にいなくなった認知症の親……、そういった人を探す依頼である。依頼者から対象者の情報が得られる浮気調査では、どこで張り込みをすればいいか、どこから尾行を始めればいいかが明確であるが、対象者を見失なわない任務を全うできる。一方の行方調査は、所在のわからない人を探すのだから、浮気調査よりも経験とスキルが必要となる。
行方調査の依頼は慎重に判断しなければいけない。「彼女がいなくなったから探してほしい」といわれても、依頼者が相手の住所も知らないとなると、ストーカーの疑いも強くなるからだ。
「依頼のときに話を聞いていると、怪しいかどうかわかりますよ。付き合っているのに住所も知らないなんて、普通に考えておかしいですからね」
恋人に思い込んでいるケースもあれば、気になる女性の素性を知りたいという可能性もある。
もし依頼を受けてしまったら、ストーカーの手助けをする結果になりかねない。そのため、警察に行方不明者届(捜索願)が出されている依頼しか引き受けないことにしているそうだ。
逆に、ストーカー被害に悩まされている人からの調査依頼もあるのだろうか。
「ストーカーの証拠を取ってほしいという依頼もありますよ。家に落書きされたり、自転車にいたずらされたりする証拠を取って捕まえたこともあります。でも、今はストーカー規制法ができて、警察も動いてくれますからね」
ストーカー行為等の規制等に関する法律(通称・ストーカー規制法)は二〇〇〇年に施行され、二〇一二年に改正された。事前に警察に相談していた女性がストーカーに殺害される事件が度々起こり、警察の対応がマスコミから吊るし上げられた。千回以上も嫌がらせメールが送られてきても、警察が動かないことがあった(その当時は、メールはストーカー行為の中に含まれていなかったという事情があった)。今では、ストーカー被害に対して警察はすぐに動いてくれるようだ。ストーカーではなくそうだと相談でも、万が一に備えて、夜間のパトロールを強化したり、相手の男性に声をかけてくれたりする。
探偵が活躍するのは、警察も動けないような行方調査などである。行方不明者届が出されても、すべての案件に警察が動くわけではない。行方不明者のデータベースに登録はされるが、緊急性や事件性がなければ、警察は動かない、いや動けない。警察庁の調べによると、行方不明者届が出されている行方不明者数は二〇一九年末で八万六九三三人。二〇一〇年間は、同じような人数で推移している。毎年八万人以上が行方不明になっているのである。年間八万人もの行方不明者を一人ひとり追うことは現実的だ。担当地域でパトロールしている警察官の職務質問によって、行方不明者届が出されていないか確認するのが精一杯である。
「突然夫が帰ってこなくなった」という行方不明者届が出されても、自殺をほのめかすような遺書や事件に巻き込まれるような状況がなければ、書類を受け取って終わりである。
探偵社に依頼が持ち込まれるのも、そういった案件が多い。真鍋が担当した案件で、蒸発した夫を探していたら、沖縄の離島で別の家族と暮らしていた、というものがあったそうだ。夫の蒸発を知って嬉しい反面、裏切られた妻の怒りも想像に難くない。離婚することになったのだが、互いに新しい人生をスタートできたという意味では、やりがいのあった調査だという。
「遺体を発見したこともありますよ」
サラリとすごいことをいい出した真鍋。昨日の出来事を話すかのように、事件の詳細を語り始めた。
依頼は、両親から「息子を探してほしい」というものだった。当然ながら警察に行方不明者届を提出していた。警察に任せておけないほど緊急性が高かったため、真鍋の探偵社に依頼があったのだ。というのも、息子の部屋から遺書が発見されたのである。
捜索方法は、地道な聞き込みだ。目撃情報を頼りに、対象者を追いかける。警察の捜査ならば、市民も協力的である。しかし、探偵には何も権限がない。そのため、警察官よりも聞き込みのテクニックがあると、真鍋は少しだけ得意そうに説明した。防犯カメラの映像を開示してもらうことも多く、そのためには正直に事の緊急性を訴えるそうだ。もちろん、依頼者にどこまで話していいかの確認を最初に取っておく。不特定多数の人に知られる恐れがあるからだ。また、大々的に公開されてしまうと、本人の目に留まり逃げられてしまう恐れもある。
今回のようは自殺の可能性が高い場合は、そんなこともいっていられない。両親の了解を得たうえで、事務所の探偵を総動員して、人海的な調査に踏み切った。立ち寄った可能性のある場所で情報提供のビラを配りながら、しらみつぶしに聞き込み調査を始めた。
目撃情報として引っかかったのが、河口湖周辺だった。対象者の車が河口湖インターチェンジをでたという情報があり、出口近くのコンビニで買い物をしたこともわかった。河口湖インターチェンジは、富士山・青木ヶ原樹海へのアクセスとして有名だ。自殺する者の心境を考えると、樹海を選ぶ可能性が高い。そこで、樹海の入口周辺を集中的に捜索した。
数時間後、対象者の車を発見したのだが、残念ながら車の中では対象者は亡くなっていた。練炭自殺だった。
「もう少し早く見つかったら助かったのでしょうが、一晩ほど経っていたので手遅れでしたね」
真鍋の口調は冷静そのものだったが、口元が少し引き締まったような気がした。真鍋にとっては、少なからず悔しい事件だったのだろう。
一九七一年に東京都で生まれた真鍋心平は、物心がつく頃から父親と反りが合わなかった。
戦前生まれでサラリーマンの父親、専業主婦の母親、三歳下の弟、そして真鍋の四人家族で、ごく一般的な中流家庭だったという。父親は大手企業に勤めていて、母親は結婚してからは働きに出ていなかった。
生まれたときから会社で暮らし、真鍋の高校生のときに念願の一軒家を購入して引っ越した。裕福ではなかったが、貧しかったわけでもない。ただ、父親は教育熱心だった。地元の国立大学を卒業して、誰もが知っている大手企業に勤めていた親にとって、学歴は最も重要な価値観だったのだろう。学校社会の全盛期という時代背景もあった。
小学生の頃から「勉強しろ」としつこくいわれ、塾に通わされたり、家庭教師をつけられたりした。しかし、真鍋は勉強が嫌いだった。勉強する意味がわからなかった。子どもの頃から父親のようになりたいとは思わなかった。父親はいつも偉そうにしているが、どれほど立派なのか理解できなかった。
中学生になり反抗期を迎えると、一切勉強しなくなった。父親と顔を合わせると喧嘩になり、殴り合いになることもあったという。
父親は、女に仕事をさせる男は碌なもんじゃない、といっていた。今の時代からすると古い人間ではあるが、高度経済成長期を駆け抜けた団塊の世代にとっては普通のことだったのだろう。
真鍋はその地域の不良が集まる高校に入学。毎年一クラス分の退学者が出るような学校だったそうだ。昼休みにはタバコの煙で廊下の先が見えにくくなり、ほとんどの生徒がバイクで通学していた。
高校時代、真鍋はバスケットボール部に所属。真面目に練習していたわけではないが、部活のために学校に行っていたようなものだと懐かしがった。それなりに強かったようだが、みなタバコを吸っていたためか持久力がなく、後半に逆転されることが多かったという。
高校を卒業する数カ月前から、真鍋はガソリンスタンドでアルバイトを始めた。もともと車好きで、一八歳の誕生日を迎えると、早々に普通自動車の免許を取得していた。
それでも遊ぶ金は乏しくアルバイトをしたことはあった。高校三年生のときはバブル最盛期でもあり、夏休みにアルバイトをして五〇万円ほど稼いだこともある。時給一〇〇〇円以上が当たり前で、金を稼ぐことが難しい時代ではなかった。
一九八〇年代後半から一九九一年まで、日本は未曾有の好景気に見舞われた。地価は高騰し、一九八九年には日経平均株価は三万八〇〇〇円を超えを記録していた(一九八五年の日経平均株価は一万円程度だった)。銀行は多額の資金をほぼ無担保で融資してくれたし、株や不動産といった資産はたった数年で何倍にも膨れ上がった。急速な経済成長は、国民の金銭感覚を麻痺させた。使っても使っても、まるで打ち出の小槌のように、金が湧いてくる錯覚があった。
真鍋が高校を卒業した一九八九年は、バブルが崩壊する直前だった。その頃、ガソリンスタンドと掛け持ちで、クラブでアルバ-イトをしたことがある。客の車を駐車場に移動する係で、経営者や芸能人の高級車に触れることもあったのだ。車好きの真鍋にとって、ポルシェやフェラーリ、ランボルギーニといった高級車を運転できる楽しい仕事だった。
しかも、かなり稼げた。正規のアルバイト代は一晩で六〇〇〇円ほどだが、客から多額のチップをもらうこともあり、一晩で二〇万円以上手にすることもあった。「真面目に勉強して大学に行よりも、早く社会に出て金を稼いだ者が勝ちだ」と思っていた。反抗心から父親とは間違っていると証明したかったのかもしれない。
真鍋は、稼いだ金のほとんどを使った。パーツを買ってきては自分で車をいじって、首都高の環状線(都心環状線)を走り回った。俗にいうローリング族だ。車に走り屋、グループで走ることが〝ルーレット族〟とも呼ばれていた。
初心者はカーブの緩やかな外回りを走り、上級者はカーブがきつい内回りを走る。首都高を一周してタイムを競うやつもいれば、最高時速を競っているやつもいた。真鍋は前者で、首都高の七〇〇円を払って朝まで夜通しで走っていた(当時は均一料金だった)。
法定速度を大幅にオーバーするので、当然ながら違法行為である。そのうち、パトカーに目を付けられるようになり、「こらー!真鍋」と呼ばれるようになった。当時は現行犯でしか逮捕できなかったため、逃げ切ってしまえば捕まることはなかったという。逮捕された友人もいれば、大事故を起こして命をなくしたやつもいた。
規制や警察の取り締まりも厳しくなるにつれ、真鍋は首都高から足が遠のくようになる。
そして二二歳のとき、会社を立ち上げた。
真鍋が始めたのは、ポリマー加工や撥水加工で車を磨く仕事。当時の車は、今ほど塗装がよくなったため、車をきれいに磨く仕事に需要があったのだ。また、車の窓にスモークフィルムを貼る仕事も始めたのだが、これが大当たりした。
スモークフィルムを貼る作業は、手先が器用な真鍋にとってはお手のもの。二、三分もあれば一台を仕上げることができた。それなのに工賃は一台で一〇万円ももらうことができた。そのうち、出張サービスを始めた。一台で一〇万円も取っていた。その半額もすれば、客は押し寄せてくる。一時間に三台こなせば、一五万〇〇〇円も取っていた。一日八時間で二〇〇万円の売上になる。一カ月休まず働くと、それだけで月商六〇〇〇万円である。原価はフィルム代くらいなので、売上のほとんどが利益になるのだ。予測を上回るうまくいかなくとも、ヨチヨチではない踏みだ。
当時は、フルスモークといって、運転席や助手席のガラスにもフィルムを貼ることができた(今は後部座席だけだ)。しかし、違法ではあるので、車検には通らない。そのため、車検の度にフィルムを貼りに行く人もいた。
会社は順調に成長していった。自動車整備士を雇い車検も請け負い、中古車販売にも手を広げた。二四歳の頃には、三店舗を経営するまでになっていた。アルバイトをしていたときの月給が、事業が成功したことで、入ってくる金額は大きくなった。二四歳だった真鍋がおかしくておかしくて仕方ない。毎月三〇〇万円から五〇〇万円が入ってくるのだ。四〇歳くらいまでに、仕事をしながらでも毎月一〇〇〇万円以上入ってくるようにしよう、と本気で考えていたくらいだ。
持て余した金は、散財される運命にある。「どうせ、また明日入ってくる」と思うと、貯金などの計画にすらならず、ほとんどが遊興費に消えていった。キャバクラ通いにもハマった。一カ月で八〇〇軒ほどのキャバクラに通ったこともある。
類は友を呼び、同じような境遇の知り合いが集まるようになった。真鍋と同じように自営業を儲かっている者、二代目の金持ち、不動産業者や自動車販売業の者もいた。そうう仲間と毎日のように飲み遊んでいた。ポルシェやBMW、ベンツといった高級車を乗り回し、毎日浪費を繰り返していく。
たまに実家に帰ると、「そんないい車に乗って、大丈夫なのか?」と父親から口うるさくいわれた。当時の真鍋は父親のことを見下していた。「父親の月収を超える金額を稼いでいたのだ。「お前に間違っていて、俺が正しかったんだ!」と勘違いしていたのだろう。そのうち、実家に寄りつかなくなっていく。
ところが崩壊の足音は、そろり、そろりと忍び寄ってくる。
一九九五年には道路運送車両法が一部改正され、すでにユーザー車検(業者に頼まずに自分で車検の続きを行うこと)が可能になっていた。一九九七年には車検制度も自由化された。これまで整備工場の独壇だった市場に、ガソリンスタンドなどが新規参入してきたため、価格破壊が起きたのだ。これまでのよに利ヤを抜けなくなった。
二〇〇〇年になると、稼ぎ頭だったスモークフィルムにも暗雲が立ち込めてきた。プライバシーガラスなるものが登場。自動車の製造過程ですでにガラスに色がつけられるようになったのだ。
仕事量は全盛期の一〇分の一ほどに激減。収入が減っても、浪費する生活スタイルはすぐには変えられず、会社の資金が底をつくまでに時間はかからなかった。真鍋にとって、従業員に給料を支払えないほどつらいことはなかった。事務所の家賃も滞るようになった。それ、従業員には家庭があり、子どもを持つ者もいる。多くの社員の生活がかかっていることを考えると、心臓を鷲づかみにされたかのように息苦しくなった。安い夜が襲ってくると逃げだしたい、逆に目が冴えてしまい、精神的に追い込まれていく。眠れない夜が襲ってくると逃げだしたい心を底から実感した。
そして、倒産。二〇〇三年、三二歳のときだった。
計画倒産に近いものだった。銀行から数千万円ほど融資してもらい、滞納していた支払いを精算した。従業員には給料二カ月分の退職金を払った。失業手当と退職金がなくなるないうちに、次の職を見つけてほしかった。銀行には申し訳ないことをしたが、取引先の人たちや従業員たちに迷惑をかけたくない一心での行動だった。
真鍋自身は法的な手続きを行い、住んでいた借家を引き払い、車もすべて取り上げられ、文字どおり一文無しで実家に戻ることになった。父親は「だからいっただろ」といったものの、精神的に参っている息子の姿を見て、それ以上は何もいわなかった。真鍋は父親といい続けていたことがわかってはいたが、そのことが余計に自分を惨めにさせた。
真鍋からは、すべてのやる気を失われた。自分の部屋に引きこもり、テレビを眺めているだけになった。自分の部屋から出るのはトイレに行くときだけの日もあった。昔の友人からの遊びの誘いも断った。惨めな自分を見せたくないという思いもあったが、遊びたいという欲求がなくなっていたのだ。心の一部がごっそり削ぎ落とされたような空虚感が身体全体を覆っていた。食事をしても味を感じないし、テレビでお笑い番組を見ても何が面白いのかわからなかった。世の中が無味無臭の世界に変わっていたのだ。「ちょっと手伝ってよ」と声をかけてくれたこともある。ただ車を運転するだけ、軽い資材を運ぶだけの簡単な仕事で一万円ほどの日給をくれた。友人の気遣いはありがたかったが、いっときの気晴らしでしかなかった。
勧められて病院に行くと、うつ病と診断された。
一年以上が経った頃、就職しようという気力が少しずつ湧いてきた。時間という薬が、懸命に真鍋を支え続けていたのだ。このままかさみ込んでいても仕方がないという気持ちが芽生えてきたのである。
ところが、ハローワークでめぼしい求人に応募しても、面接どころか書類で落とされてしまう。「会社をつぶしてしまうようなやつ、誰を雇ってくれないよな」と覚悟はしていた。「このまま就職できないのだろうか」という不安も強くなっている。父親の知り合いが経営している福祉関係の会社に面接に行ったこともあったが、体よく断られた。真鍋は人が福祉の仕事をやりたくないのだから、採用されるはずがない。どんな仕事でもいいわけでばなかった。自分の経験が活かせる仕事、やりがいのある仕事、興味の持てる仕事……。窮地から抜け出すためには、そういう仕事が必要だと感じていたのだろう。
ある日、テレビから探偵社のドキュメンタリー番組が流れてきた。夫の依頼で妻の浮気調査をするという番組で、詳しくは覚えていないが、「浮気をしている妻が相手の男と一緒に住んでいて、探偵が妻を連れ戻す男と交渉するという内容だった……」そうだ。
この番組を見たとき、真鍋は「これだ!」とピンときたという。当時は直感でしかなかったが、「自分の経験が活かせる仕事だと感じたのかもしれません」と振り返った。探偵は、人の裏側を覗くのが仕事である。極限状態になったとき人間は本性を現すものだが、探偵をしていると、そういう修羅場に出くわすことが多い。テレビに出てきた探偵は、怒鳴り散らしている浮気相手の男をなだめながら、依頼者の要望を伝えていく。荒れ狂った空気を冷静沈着に処理している。探偵は、百戦錬磨の者に見えた。真鍋は、その姿に何かを感じたのかもしれない。心が折れるほどの経験が役に立つかもしれないのだろうか。
テレビに出ていた探偵社の名前も覚えて、タウンページで電話番号を調べた。
「暮らしていますか?」と電話してみると、「履歴書を持ってきてください」との返答。「どうせ落とされるんだろうな」という気持ちで面接に向かった。そこの社長が真鍋の履歴書を見ながら、「車の運転は得意ですか?」と聞いてきた。普通の人は得意だと思います」と答えると、社長はとても喜んだ。「探偵の仕事には車の運転が必須なのだ。当時いた社員はみな運転が下手で、よくぶつけていたそうだ。「すぐに来てほしい」という社長の言葉に拍子抜けした真鍋は、「逆に、いろいろな事業に失敗しているんですが、大丈夫ですか?」と聞いてしまったくらいだ。
社長は「そういう人のほうがいいんですよ」といって、真鍋を幹部候補として迎えてくれた。経営には、逆境でも諦めずに前に進み続ける胆力が必要となる。つらい経験こそが胆力を鍛えてくれる。社長はそう考えたのかもしれない。少なくとも、人の上に立つべき人間、面倒見のよさといった真鍋の資質を感じていたはずだ。真鍋と話をしていると、そういう天性のものを感じずにはいられない。
創業してまだ二年くらいしか経っておらず、従業員も八人だけの探偵社だったが、社長は「日本一の探偵社になる」という野望を描いていた。そのための幹部候補を探していたのだ。「日本一を目指す」ということが、なぜか真鍋の心にスッと入ってきた。無謀とも思える大きな目標に立ち向かう勇気に励まされた気がした。「もう一度、夢を見てもいいのだと許された気もした。ここで働きたいという意欲が、真鍋の心のから沸々と湧いてきたのである。
三三歳の春、真鍋は探偵になった。
探偵として最初の調査を覚えているか聞いてみた。
「覚えていますよ。先輩と一緒に、車で動き回る対象者を尾行する調査です。やっぱり浮気調査でしたね。ずっと尾行していたんですが、愛人に会うこともなく帰宅しました。完全な空振りです」
それから二〇年近くが経過した。自分で事業は起こしたくないと思うほどのどん底を味わったにもかかわらず、なぜか探偵社を経営している。
最初の探偵社では、二、三年ほど働いた。幹部になり、調査部長まで昇進した。会社も、日本一とまではいわないまでも、業界で知らない者がいないほどまでに成長した。会社に勤めて、月給をもらえることの有り難さを日々噛みしめていた。
ところが、会社の状況が一変する事態が起きた。会社が大きくなったことで新たなスポンサーがつき、経営方針を巡って社長と対立するようになったのだ。社内は親社長とした雰囲気になり、調査と真摯に向き合える状態ではなくなった。真鍋は社長に恩義を感じていたが、その探偵から身を引く決意をする。
フリーの探偵となった真鍋は、横の繋がりが豊富だったこともあり、他の探偵仲間とともに調査を請け負い始めた。そのうち、仕事ができる仲間と探偵社を立ち上げることになる。親分肌の真鍋が社長になったのは自然の成り行きだった。
真鍋は現在、自ら調査を行っていない。依頼を受けると部下の探偵に割り振る。場合によっては、他の探偵社に協力を仰ぐこともある。真鍋の仕事は、依頼者と話をして見積もりを出すこと、そして調査結果を依頼者に報告すること。真鍋は依頼者とのやり取りを一手に引き受けている。
真鍋は探偵ではあるが、依頼者の相談役であり、カウンセラーでもある。依頼者の話を聞き、悩みや不安まで踏み込んでいく。依頼者に最適な解決策を探し、調査後のアフターケアまでです。この役務を全うするには、長年の経験が必要だという。チームを組んで調査計画を立てる技術や経験だけでなく、依頼者の本音や要求を読み解くコミュニケーション能力も必要だろう。
現場の探偵は、依頼者と接することはない。真鍋が指示を出すための書類しか、依頼者のことを知ることがない。探偵が依頼者の話を聞いてしまうと、先入観で調査の邪魔になる。「きっと浮気しているに違いない」「相手が悪いはずだ」といった先入観は、調査の邪魔になる。思いどおりの結果になるように、情報が曲げられるかもしれないし、予期せぬ出来事に直面したとき、判断を鈍らせることもある。
依頼者との適切な距離を保つ能力は、長年の経験がものをいうのかもしれないが、経験だけでは補えない人間性にも大きく左右されるのだろう。
依頼方法は、インターネットが登場するまでは電話が主流だった。そのため、当時はタウンページなどの広告に費用をかけていた。タウンページは各地域別だったため、いくつもの広告枠を買わなければならない。紙面の四分の一のモノクロ広告でも、東京の各地域をカバーすると、年間で数千万円の広告掲載費になる。それでも、各探偵社は広告枠を取り合っていた。電話帳の広告は、それほど重要なものだったのである。業種別の電話番号は五十音順だったため、最初に掲載してもらうために「あ」から始まる探偵社が多かった。
現在の依頼は、ほとんどがネットからである。自分が調査を依頼する立場であっても、ネットで検索するだろう。何事もネットで情報を得る時代である。料金はいくらか、どういう調査をしてくれるのかといった業務内容から、怪しい会社ではないかといった口コミ情報まで、手っ取り早く得ようとする。試しに「探偵 浮気調査」で検索してみると、多くの探偵社がヒットした。具体的な行動をアップしている探偵社もあれば、詳細な調査報告書を紹介しているところもあった。
調査依頼は、弁護士からの紹介もあるという。離婚の相談を受けた弁護士から「証拠があったほうがいい」といわれ、真鍋のところに回ってくるのだ。離婚をするためには、夫婦それぞれの了承が必要である。ただし、相手が不貞行為をしていたら別だ。相手が別れたくないといって張っても、こちらから一方的に離婚することができる。離婚による財産分与を優位に進めるためにも、浮気相手に慰謝料を請求するためにも、確固たる証拠が必要になってくる。
それでも、最初から離婚を視野に入れて依頼してくる人は二割程度だという。ほとんどが夫婦関係を修復したいと考えているようだが、中にはただ事実を知りたいという人もいる。
どのくらいの調査費用が必要なのか聞いてみると、依頼内容によって料金が変わるほか違うので、一概には答えられない、という。
「一日だけの調査なのか、一週間かけるのか、それとも証拠が取れるまで徹底的に調査するのかによっても違います。一日の調査でも、開始時間か朝か夕方かでも違うし、翌朝までかかれば高くなります。尾行を開始する場所や移動手段などによって、人員も二人でいいのか、五人くらい必要かが決まります。なので、簡単にいくらというのはお答えできません。どういう状況なのか、どうしたいのかをヒアリングしながら、具体的な金額を見積もります。ただ、どうしたいのかわからないという依頼者も多いですね」
突然、夫から離婚したいといわれて、調査を依頼してくる人もいるという。
「旦那が離婚したい理由を聞いたら、性格の不一致だといわれたそうですが、絶対に納得できない。性格不一致は仮装した浮気です。状況にもよりますが、普通に生活しているのに急に離婚したいとか言いだすというのは、異常じゃないですか。旦那のいうことを真に受けているのかもしれませんが、そういう人はそもそも依頼してきませんからね。依頼してくるのは、女の影がちらついているからです」
夫の女性問題が原因だと疑いつつも確信を持てない。確信できても、自分がどうしたいのかもわからない。そういう依頼者に対して、真鍋はきっぱりといい切る。子どもがいなくて浮気相手の女性と一緒になりたいのであれば、相手のことがどれほど好きであっても「離婚したほういい」と伝え、経済的に離婚が難しい夫の浮気相手が発したものであれば、いっときの感情に流されず「ヨリを戻したほうがいい」ときには、依頼者に寄り添いになることもあるそうだ。目の前にいるクールな真鍋の胸に、熱いものが内包されていることに驚いた。
結局のところ、関係を修復するのか離婚するのかの選択ではあるが、簡単に白黒つけられない問題でもない。やり直すにしても、互いの関係にヒビが入ったままだと長続きしないだろう。だからこそ、関係の修復を望むのであれば、浮気した夫に優しくしてください」と、真鍋は口を酸っぱく説く。
「浮気した夫が悪いと、相手を責め立てる人もいますが、原因の一端は依頼者にもあると思っています。だからはっきりといます。あなたにも原因があって、浮気になっている可能性も高いですよ、と。もともと夫婦関係がギクシャクしていて、女に走った場合もありますからね。なんでそこまでいわれなきゃいけないので怒られることもありますが、こちらも真剣ですから。嫌なこともいわなければなりませんからね。奥さんから一方的に責められたまま、平穏な結婚生活なんて送れないですから。やり直したいならば旦那さんには優しくしないと」
自分に非があったとしても、妻に責められながら生活するのは苦痛でしかないだろう。
「ときには、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいと決めてあげることもあります。最終的にどうするか決めるのは依頼者本人ではありますが、客観的な意見をいってほしい人もいますから」
夫のことが好きで好きでたまらないという女性の依頼者がいた。しかし、夫の浮気癖が直らない。
以前にも浮気が発覚したことがあったが、再び疑惑が浮上してきたのだ。夫に問い詰めても、「俺を信じられないのか?」と逆にいい返された。強く追求して嫌われたくないが、夫が他の女性と一緒にいるところを想像するだけで、気が狂いそうになる。浮気の証拠を取って、相手の女性に別れてほしいと迫りたいという。
「話を聞く限り、奥さんのところに戻ってきたとしても、絶対に浮気癖は直らないでしょう。そうすると、別れたら浮気相手を求めるかもしれません。認められないのであれば、別れるしかないですよね。世の中に愛情が深いとか気がない男性もいるんですよ。どれだけ好きでも、別れたほうがいい。誰に相談しても同じアドバイスになると思いますよ」
依頼者は夫が自分のところに戻ってくることを熱望していた。離婚など微塵も考えていなかった。だが、真鍋は離婚を前提とした調査を提案した。依頼者がまだ若く、子どもがいなかったことも大きい。最初は言い合いになり、そのうち依頼者は涙ぐんだ。依頼者にとって、夫と別れるのは、浮気されるよりも苦痛なのだろう。自分でも愚かだと理解していても、どうしようもないこともある。
離婚するかどうかは保留して、夫の浮気調査を開始した。浮気の詳細が明らかになるにつれ、依頼者の気持ちも少しずつ冷めていった。なんと、浮気相手が二〇人もいたのである。
夫のことをまだ好きだといっていたが、離婚を決意した。二人で購入した都心の高級マンションは、依頼者のものになった。
真鍋は、依頼者から泣いて感謝されたこともあるそうだ。法外な謝礼を渡されそうになったこともあるそうだが、最終的に人生の相談にまで発展してしまう。最初は怖そうに見えた真鍋の顔も、話を聞いているうちに、どんな相談にも乗ってくれる頼れる兄貴のような笑顔に見えてきた。頼りがいと安心感、そして温かさが同居しているのだ。
ただ調査後は、依頼者と距離を置いているという。
「一番期待しているときに相談を受けるので、何度も電話がかかってきたり、手紙が送られてきたりします。親密にならないようにしています。助けてもらった人と関係を持ちたい気持ちはわかりますが、キリがないですからね。こちらに依存されても困りますし、依頼者には新しい生活があります。ある程度のところで関係を断ち切ってあげないと、前に進めないじゃないですか。本当に大事なのは依頼者の今後の人生ですから」
冒頭の木曜日に限定で浮気をしていた案件は、最終的にどうなったのだろうか。
「この依頼者は非常に冷静な方でした。浮気相手の女性に連絡して、二度と会わないという誓約書を取ったようです。その一日後には慰謝料二〇〇万円が振り込まれたそうです」
別の調査で、浮気相手の女性(第二対象者・ニタイ)が既婚者であることが判明した。朝早くから自宅前で張り込み、自宅から出てきた夫らしき人物も尾行。夫が大手企業に勤めていることもわかった。
「何かあったら弁護士を紹介しますと伝えていたのですが、ご自身で解決されたようです」
二〇〇七年、探偵業法が施行された。警視庁のホームページによると、「探偵業は、依頼者に気づいて必要な規制を定めることにより、その業務の適正を図り、もって個人の権利利益の保護に資することを目的としています」と書かれてある。要するに、人に迷惑をかけないように、そして適正に探偵業を行うための法律である。探偵を生業にするためには、探偵業届出書を公安委員会に提出しなければいけない。真鍋の事務所の壁にも掛けられていた探偵業届出証明書がないと、探偵業は行えないのだ。
法律ができた背景には、悪徳探偵社の存在もある。適当な調査をして報告するだけでなく、戸籍謄本を入手したり、銀行の預金残高を調べたり、部屋の合鍵を作成したりと、違法行為を行うところも多かったのだ。強引に契約を結ぶこともあれば、多額の費用を請求し、払えないと借金を強要するような反社会的勢力と関係があるところもあった。今でも悪徳探偵社は皆無とはいえないが、減少したのは間違いない。違反した探偵社は営業停止という処分を課されるので、探偵業届出証明書は少なくとも正当な探偵社を見分ける基準にはなるだろう。
規制ができるまでは、依頼者が夫の浮気相手と交渉する際、真鍋も立ち会っていた。依頼者の代理人になることは、正確には弁護士法に違反するので、探偵業ができるまでは処分が曖昧だったのだ。過去に何度も立ち会ってきた真鍋は、修羅場を避けるすべを心得ている。
その一つが、調査報告書を交渉相手に見せないこと。それは、第一対象者(イチタイ)に対しても同じだ。写真や動画を突きつけてしまうと、そうなるが、提示しないことが重要なのである。
「証拠を取られた方の不安は、いつから見られていたのだろうか、ということなんですよ。わざわざそこを明かす必要はありません。証拠を見せてしまうと、「この日だけなんです」と、開き直って知らないふりとホテルに行ったんだ」といった逃げ道を作ってしまいます。不倫というのは継続した関係ですから、一夜だけの過ちだと不貞行為にはならないのです。ですから、すべてを知っている態度で接しなければいけません」
そういった調査後のアドバイスも抜かりない。調査報告書は「最後は切り札、ある意味〝御守り〟みたいなものである。
探偵という響きは魅力的だが、これほど大変な職業もない。真鍋にとって、探偵という職業はやりがいそのものだろうか。
「業務は大変ですからね。朝早くから夜遅くまで時間も不規則ですし、一週間帰宅できないこともザラです。忍耐力がないと務まりません。恋人もできにくいし、結婚生活にも向いていない職業です。ただ、他の職業では味わえないような体験ができます。同じ調査は二度とないので毎回新鮮ですし、常に緊張感と緊張感があるので、その辺にやりがいを感じている人も多いです」
荒ぶっていた二〇代、天狗になっていた三〇代、探偵として人の欲望を見続けてきた三〇代から四〇代を経て、五〇代に差しかかった現在の真鍋は、人の役に立ちたいという境地にいるようだ。
「探偵というのも社会に必要な仕事だと思うのです。だからこそ、法律で認められているんじゃないでしょうか。もし必要でなければ、規制されて徹底的に潰されるはずですから」
客観的なことしか口にしない真鍋だが、彼が発する言葉の奥には、「探偵は人を救う職業だ」という信念が隠されていた。一人ひとりの依頼者と真摯に向き合い、彼らが立ち直るきっかけを模索する。複雑に絡み合った糸を丁寧にほぐすように、依頼者にとって最良の未来への道を見つけ出す。
あれほど反発していた親とも、最近では関係が縮まってきているようだ。仲がいいとはいえないが、喧嘩をすることはなくなったという。真鍋は、少し照れた様子で「今では親に感謝していますよ」と小さな声でつぶやいた。
江戸川乱歩の小説に登場する名探偵・明智小五郎は、独特の視点と天才的な頭脳で、複雑怪奇な事件を飄々と解決する。シャーロック・ホームズは、現場に足繁く通いながら、並外れた洞察力と推理力をもって常識では計れない事件を解決する。
今ここに存在する真鍋心平は、温かく広い懐と厳しくも愛のある言葉、そして仕事に対するプライドで、迷える人たちの問題を解決する。
三人も名探偵である。
世の中に名探偵がいる限り、社会の闇に光が差し込むはずだ。
最後に、真鍋に聞いてみた。
「なぜ、そこまで依頼者に寄り添えるんですか?」
「困りきった人を助けるのは、人として普通のことじゃないですか?」
「普通のこと」と普通にできること、それが名探偵の条件なのである。
私たち人間も同じだろう。仕事の顔、家庭での顔、友人とはしゃぐ顔、異性の前で格好つけた顔、どれが本当の顔なのか、どれも違うのか、自分ですらわからない。表だと思っていたものが裏になることもある。裏のさらに裏があることもある。隠ごとや下心があるというだけでなく、修羅場でしか出てこない顔に、その人の本質が現れるのだ。
秘密の多い街を背にして、スマホで地図を確認しながら目的のビルを目指した。
看板で会社名を確認し、何の変哲もない雑居ビルに入る。エレベーターに乗り込んで四階で降りると、右と左にそれぞれ扉が一つずつあり、一つに「Y探偵社」と書かれたプレートが貼り付けられていた。一度大きく息を吸ってから、インターフォンを押す。
実際よりも重そうな扉の中から現れたのは、中肉中背で頭を丸刈りにした男。この男が探偵、真鍋心平である。
案内された会議室は、想像していたよりも殺風景だった。普通の会社の会議室と同じか、それよりもモノが少ないのではないか。テーブルの上には、小さな観葉植物が一つ置かれ、筆記用具とカレンダーといった必要最低限のものしかない。ティッシュが置かれているのは、泣き出す依頼者もいるからだろうか。室内にはコート掛けと雑誌のラックがあり、ラックには探偵業に関する雑誌や冊子が並んでいる。壁には、「探偵業届出証明書」が掛けられていた。
調査報告書を見せながら、真鍋心平は探偵の仕事について話してくれた。
依頼者の女性は三〇歳で専業主婦。どこにでもいる普通の主婦とのことだが、上品な身なりから、育ちのよさが窺える。地味ではあるが、着心地のよさそうな衣服を丁寧に着ている。長年大事に使用すると、そんな暮らしぶりが透けて見えるようだ。社会人経験がほとんどないようで、少しおっとりとした雰囲気だが、目の奥には知的な光を覗かせていた。
依頼の内容は、夫の浮気調査。探偵社に持ち込まれる依頼のほとんどが浮気調査だそうだ。一昔前は夫の浮気を疑う妻からの依頼ばかりだったが、ここ数年は夫からの依頼も多いという。それに、女性の浮気が増えているのだろう。共働きが増えさせたせいではないか、と真鍋は説明した。女性の社会進出は歓迎すべきことだが、思わぬところで副作用が生じる。すべての物事にいえる、世の中の真理かもしれない。
結婚して一〇年以上経つが、これまで浮気を疑うこともなかったという。ところが、三カ月ほど前から夫の様子が変わった。毎週木曜日だけ、帰宅が遅くなったのだ。他の曜日は今までどおり早めに、木曜日だけが終電近くになる。「毎週理由を聞くと『毎週木曜の午前中に会議があり、木曜中に資料を作成しないといけないのだ』と、いわれた。社会人経験の少ない依頼者でも『本当だろうか?』と訝しむほどであった。こういうときの女性の勘は鋭い。
夫のスマホも無造作に置いて、メールの着信も気にすることはなかった。面倒くさいといって、パスワードの設定もようとしなかった。今では、スマホを肌身離さず、トイレにも風呂場にも持っていく。妻に見られたくないという強い意志を感じるとともに、誰からの連絡を待っているようにも思われた。
それでも、大げさに考えないようにしていた。高校生の娘と中学生の息子がいて、家庭はそれなりに平穏である。穏やかな暮らしをかき乱すようなことはしたくない。自分の思い過ごしかもしれない、いや思い過ごしだと信じようとした。
ところが、決定的な出来事があった。木曜日の夜に、夫に電話をしたときのことだ。たいした用件ではなかった。金曜の朝に飲む牛乳がなくなったので、帰りに買ってきてほしいと伝えたかっただけである。メールで連絡することもあったが、気付かない可能性も考えて、その日は電話をしたのだ。
何度電話しても通じない。「おかげになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」というアナウンスが流れるばかりだった。以前、電話に出たことがあるので、夫の職場は電波が届かない場所ではない。
時間を置いて何度もかけてみたが、やはり結果は同じだった。徐々に不安になってきた。夫に何かあったのではないだろうか。安否の確認だけでもと思い、迷いながらも会社に電話をかけてみると、「〇〇さんなら、もう帰宅されましたよ」と事務的に返された。
毎週木曜は残業のはずが、夫は会社にいない。どこかで事件や事故に巻き込まれている可能性も頭をよぎったが、女の勘は「そうではない」と告げていた。
その日、夫は何もなかったように、いつもどおり終電で帰ってきた。
「今日電話したんだけど、かからなかったわよ」というと、「仕事中だから電源を切っていた」とうそぶいた。会社に電話したことまではいわなかった。
「依頼者の話を聞いただけで、その対象者が浮気をしているかどうか、一〇〇パーセントわかりますよ」
真鍋は坊主で、黒いスーツに黒いネクタイをしている。強面の風貌だが、白いワイシャツのボタンが弾けそうな腹に親しみやすい愛嬌がある。全身から口の堅そうな信頼感が漂ってくるが、目尻のしわに優しさの面影が映し出されているようでもあった。口調は丁寧だが、「一〇〇パーセント」という切る言葉に裏づけされない自信のほどが窺える。
「本当に一〇〇パーセントですか?」
意地の悪い質問にも、「ええ、まあ一〇〇パーセントでしょうね」と、考える間を置かず、顔色一つ変えず、即答。低いトーンでゆっくり話す真鍋の言葉には、底知れぬ説得力がある。長年の探偵生活の中で何千件もの浮気調査をしてきた経験だけでなく、持って生まれた資質のようなものも感じた。
今回の依頼は、真鍋には「間違いない浮気だ」という確信があった。夫は上場企業の管理職で、それなりの収入があるが、毎月の生活費を渡されるだけで、妻は正確な月給額を知らないという。
「こういうのが一番怪しいんですよ。浮気は、お金と時間に余裕がないとできないですから」
そうなのだ。浮気は金が必要なのである。
「夫婦共働きで財布が別だったり、この依頼者のように生活費として家庭に入れている場合も多いですね。小遣い二、三万円で浮気なんてできませんから」
依頼者の話を事細かに聞いた後、疑わしい木曜日に調査することになった。遅くなっても必ず終電で帰ってくるという話なので、調査が翌朝までかかることはなさそうだ。
木曜日の午後四時半。真鍋の部下の探偵たちが依頼者の夫の勤務先を張り込む。尾行する相手を対象者と呼び、最初の尾行対象者を第一対象者、もしくは業界用語で「イチタイ」と呼ぶ。
第二対象者に愛人がいた場合、その愛人を次の対象者になるので、呼び方は第二対象者、もしくは「ニタイ」となる。
今回の調査で依頼者の夫は、午後五時半頃に退社するということが分かっていたので、一時間は早めに現場に入る。事前調査で、出入り口は表と裏の二カ所あることが分かっていた。表には二人、裏に一人の探偵を配置。すぐにタクシーに乗り込む場合も想定して、車とバイクも待機。合計五人の探偵がイチタイを追う。
午後五時三〇分。イチタイが表口から出てくる。服装はいつもと同じスーツ姿だ。事前に得た情報せいか、探偵の目にはイチタイの足取りが心なしか軽そうに映る。表口の二人が尾行を開始。裏口の一人が後を追う。
イチタイは最寄り駅まで歩き、改札を通過。改札の際、探偵は必ず対象者の後ろに張り付く。間に一人でもいた場合、その人が自動改札機で引っかかると、対象者を見失ってしまうからだ。これは尾行の鉄則である。
午後五時五〇分。イチタイは電車に乗る。イチタイが乗った電車は、自宅に帰る方向とは逆だ。ますます怪しい。というよりも、もはや疑いは確信に変わる。
電車の中でつり革につかまっているイチタイは、スマホをいじり出す。浮気相手に連絡しているに違いない。探偵の一人がイチタイのスマホ画面をビデオカメラで撮影する。ビデオカメラは、探偵の必需品。基本は手のひらサイズのハンディカメラを使用するが、このときだけは別。指先に仕込んで使用する別仕様の超小型カメラで、スマホの画面を覗き撮る。
「今向かっているよ」
「早く会いたいね♡」
といったLINEのメッセージが鮮明に写っていた。ここまでくると、真鍋は依頼者に「もうやめておきましょう」と連絡することもある。真鍋は「依頼者がいちばん傷つかないで済む方法を選んであげたい」と語る。しかし、今回は依頼者が「最後までお願いします」と強く希望したので、調査は続行された。
撮影している画面を撮る技術は、スマホの画面に直接触れるものでも、平然とした顔でスマホの画面を撮影する。それがどれほどのリスクがあり、緊張感を強いられるのか、想像しただけでも心拍数が上がる。
イチタイは盗み見されているとは露知らず、顔が緩んでいるようにも見える。結婚してから二十数年来、すでに失われたかと思っていた恋愛感情が、第二の春が到来したのである。浮ついた気持ちでまわりが見えなくなるのは、人の男としてよくよく理解できる。自分が尾行されているとは想像すらしていないだろう。
満員電車で混み合っている場合、対象者のスーツの裾を握ることもあるという。特に通勤時間帯の山手線などで、人波に流されて対象者の反対側に押しやられたりすると、簡単に対象者を見失ってしまうのだ。
午後六時一五分。イチタイが〇〇駅で下車。改札を出たところで立ち止まって、あたりを見回している。イチタイの視線は、右に左に忙しそうに動き回る。時々左手に持ったスマホも視線で落とす。五分ほどすると、イチタイに近づいてくる女性が現れた。
探偵にとって、心が躍りする瞬間だ。これまで顔も素性もわからなかった、想像の中でしか存在していなかった浮気相手とのファーストコンタクトだからである。
「相手はどういう人なんだろうか?」
調査の約八割は張り込みだという。尾行には、見失ってしまうかもしれないという緊張感もあれば、対象者を追いかける高揚感もある。一方の張り込みは、ただ静かに待つだけだ。見逃したら終わりという緊張感はあるが、何時間も張り込むため、気が抜けるときもある。朝早くから夜遅くまで張り込みで何も動かない、ということもよくあるのだ。
「どのくらいの年齢か」といった、たわいのない会話が繰り広げられる。暇な時間があればあるほど想像を膨らませてしまうのは、人間の性かもしれない。
待ち合わせに現れた女性。これが第二対象者、すなわち「ニタイ」だ。ニタイは五〇代で、イチタイと同世代。当然ながら、ニタイの顔も動画で撮影する。
デジタルカメラが普及し始めた二〇〇〇年代前半に、探偵業界にもデジタルの波が押し寄せた。それまではアナログの一眼レフカメラが主役だった。いわゆるフィルムカメラなので、現像するまで、証拠の写真が撮れているか確認が得られなかった。目の前に確固たる証拠が存在しているのに、写真に収めることができなければ意味がない。暗いとシャッタースピードは遅くなる。大事な瞬間を撮り損ねたり、誰かわからないほど顔がぼやけたりすることも多い。感度の高いフィルム(ISO3200など)を使用しても、今のデジタルカメラほど鮮明には撮れない。
デジタルビデオカメラも小型化され、探偵は静止画ではなく動画で撮影することが多くなった。動画で撮影しておけば、どの場面も切り出すことができる。カメラを回し続けておけば、決定的瞬間を逃すリスクも減るのだ。
一昔前に比べて、今の探偵は道具に恵まれているといえるだろう。ただ、カメラの充電が切れたら終わりなので、予備の電池は何個か持っていく。ビデオカメラが故障したときのために、予備のビデオカメラも必要だ。万が一を想定しておくことも、探偵としての心構えなのである。
正面からの顔を撮影することが最優先ではあるが、それ以外にも全身を撮影する。特にカバンと靴を押さえておくのも、これまた探偵の鉄則だ。女性は化粧や服装が変わっただけで、見分けがつきにくくなる。その点、別の日の調査で服装が変わっても、カバンや靴は同じという女性は多い。相手を見逃さないための技術である。若いカップルの場合、漫画喫茶の個室に入ることも多い。そういうとき、脱いだ靴を確認すれば、個室にいるのが対象者たちかどうかわかる。
また、イチタイが左手の薬指に結婚指輪をしている画像も押さえる。というのも、ニタイに慰謝料を請求するとき、「結婚しているなんて、知らなかったんです……」といわせないため。結婚指輪をしていれば、気付かなかったという言い訳は成立しない。車で逢引する場合も、同じ理由で、車内にあるチャイルドシートなどの画像が重要な証拠になる。飲食店などで二人の会話を録音することもあるのだが、「今日はお客さん大丈夫なの?」といった会話を拾っておけば、見苦しい言い逃れができなくなる。
午後六時四八分。対象の二人が飲食店に入る。探偵の一人も店に入り、「待合わせなんですが、ちょっと中を見ていいですか?」と断って店内を確認。対象者の二人を発見するも、時間が早いためか店内はガラガラ。「まだみたいでした」と、飲食店を出る。近くの席を取り、二人の会話を録音したいが、今回は断念。不自然な席取りをすると警戒されるので、あまり無理をしない。
午後八時三三分。二人が飲食店から出てくる。二人は手を繋いでいた。当然ながら、その姿も撮影。どちらから手を繋いだかも確認する。なぜなら、どちらに主導権があるのかが垣間見られるからだ。女性のほうから手を繋いだならば、女性のほうが積極的だと推測できる。そういった小さな証拠を一つずつ積み重ねていくのだ。残念ながら今回は、どちらに主導権があるかまでは情報が得られなかった。
午後八時四〇分。
二人は、手を繋ぎながらラブホテルに入る。
ラブホテルの入退室は必ず撮影する。この二つがワンセットとなり、「不貞の立証」となるのである。ホテルに入った二人を確実に撮ったら、男女ペアで行動している探偵もホテルに入る(こういう状況を想定して、男女ペアで尾行するときにしている)。二人が何号室に入室したのかを確認するためだ。
ラブホテルには、玄関ホールにあるパネルで部屋を選ぶタイプがある。空いている部屋が点灯していて、部屋の雰囲気を伝える写真とともに、休憩と宿泊の料金が書かれている。希望する部屋のボタンを押すわけだが、それを見ていれば二人が入った部屋番号がわかる。パネルがなく受付で鍵を受け取るタイプのラブホテルでは、鍵に書かれている番号を盗み見たいが、対象者の死角に入って見えないことも多い。
今回の対象者たちは、三〇五号室のボタンを押してエレベーターに乗り込んだ。続いて、男女ペアの探偵も、空いている三階の部屋を押して、恋人同士のフリをしながら同じエレベーターに乗り込む。
同じエレベーターに乗り込んでも問題はないという判断になった。その場で警戒しなかったため、まさかのセンサーが、探偵には求められる。
三階で降りた対象者たちが三〇五号室の部屋に入るのを確認。完璧な証拠動画も撮れた。ここまではいる。まれに「ホテルの待合室でずっといただけで、強弁する対象者がいるからだ。ラブホテルに入っても、「何もしていない」と抵抗する人もいるが、それは社会通念上、苦しいを通り越して、見苦しい言い訳でしかない。裁判で争うことになっても、間違いなく勝てる。
午後一〇時四〇分。二人がラブホテルから出てくる。手は繋いでいない。少しは警戒心が出てきたのかもしれないが、抑えられない欲が満たされると、人は冷静になるものだ。本人たちも「こんな関係、いつまで続けるのだろう?」と少なからず思っているのかもしれない。
「いっときの快楽、まやかしの愛、刹那的な愛欲が、悪いものの多幸感……。偽物とわかっていても、誰もが根源的に求めてしまう。誰にとっても不幸だと理解していても、自らも真の関係を解消することができない。人間は保身の生き物で、一度手に入れたものを簡単に手放さない。満たされた欲と情けが渦を現す頃には、パンパンしなければいいか」という言い訳を自分として、同じ過ちを繰り返す。
午後一一時二三分。待ち合わせをした駅の改札口で、イチタイとニタイは別れる。探偵たちはニタイを尾行する。ニタイの素性を明らかにするためだ。浮気相手の名前や住所などを確認するまでが、今回の調査である。対象者の住所を突き止めることを、探偵業界では「宅割り」という。
依頼者の情報によると、イチタイはこのまま帰宅すると考えられるため、尾行を続ける必要がない。
探偵の仕事は、「追う」「撮る」「割る」に大きく分けられるそうだ。「追う」とは、調査対象者を尾行すること。「撮る」とは、証拠動画を撮影すること。そして「割る」とは、浮気相手の顔や名前、住所、勤務先などを割り出すことをいう。それぞれの優先順位は、案件ごと、状況ごとによって変わってくる。
午後一一時四八分。ニタイが〇〇駅で降りて、タクシー乗り場に向かう。駅から自宅までタクシーを使うのだろう。タクシーに乗ったり、家族が車で迎えに来たりすると、見失う確率が高いため、探偵はあらかじめ対策を講じている。
今回尾行している探偵は五人、男女ペアの二人は少し距離を取って一人、車とバイクに一人ずつ。
探偵たちは常に情報のやり取りをしている。やり取りの方法も時代によって変化してきた。少し前までは携帯電話にメールだったが、今は主にLINEである。チームを組む度にLINEグループを作成し、情報を共有する。今回の場合は、現場の探偵五人に司令塔の真鍋を含めたグループでやり取りをする。探偵同士のやり取りを見ていれば、現在どういう状況なのかがわかる。調査後に具体的な報告はするが、逐一状況報告をする煩わしさから開放され、対象者の尾行に集中することができるのだ。
対象者が向かっている方向と車もバイクもひた走るが、急行電車などに乗っていると追いつかないことも多い。それでも現地に向かうのは、探偵にとって〝諦める〟ことが「敗北」を意味するからだろう。探偵ほど、諦めの悪い職業はない。諦めたら終わりである。高額の調査費用を支払う依頼者のためにも、最後まで追い続ける真実がある。競り諦めなければ必ず突き止められるのだ。もっとも、車移動の探偵には、終電がなくなった探偵を拾って帰る、という実務的な理由もある。
ニタイに張り付いていた探偵から、バイクに乗っている探偵に向けたメッセージが届く。
「〇〇駅ですが、あとのくらいでしょう?」
「一〇分くらいです」
バイクはまだ到着しない。このままタクシーに乗られたら、見失う可能性が高い。そこで探偵の一人がニタイに話しかけて、時間を稼ぐことにする。
「あの、ちょっと道を聞いてもいいですか?」
どんなことでもいいので、バイクが到着するまで時間を稼ぐのだ。今回は相手が女性なので、女性の探偵が話しかけることにした。警戒されないためだ。ただ、一度同じエレベーターに乗り込んでいるため、疑われるリスクもある。先ほどと印象を変えるため、別のアウターに着替えて、キャップをかぶる。こういうときのために、探偵は予備の服を持ち歩いている。アウターの色が変わるだけで印象は変わる。目立たない服装が基本だが、系統や方向性の異なる服を用意しておく。そういう意味では、リバーシブルの服は探偵にとって便利なアイテムである。
午前〇時台。ニタイがタクシーに乗る。すでにタクシー乗り場の少し前で待機していたバイクが追いかける。
バイクが間に合わなかったときは、探偵もタクシーで追う。その場合、必ず対象者よりも先にタクシーに乗り込まなければいけない。マナー違反であっても、列に割り込んで対象者より前に並ぶ。先にタクシーに乗って少し前で待機しておき、後ろから対象者の乗り込んだタクシーを尾行するのだ。そうしないと、すぐにタクシーが来ないなどの事情で、対象者を見失ってしまう。テレビドラマのように、後からタクシーに乗り込んで「前のタクシーを追いかけてください」ということばない。ドラマなので都合よくタクシーが来てくれるが、現実の世界は都合よくできていない。
対象者が駅から自転車で帰宅する場合もある。バイクが追いつけずらいが、間に合わない場合は、コンビニの店員に頼み込んで、店員の自転車を借りられないか交渉することもあるという。信用してもらえないときは、自分の運転免許証を人質に置く場合もある。急いでいるからといって、その辺にある自転車を勝手に使うわけにはいかない。罪を犯すと、探偵社が営業停止になってしまうのだ。後ほど述べる探偵業法という法律に規制されている。
自転車が借りられない場合は、対象者の自転車の特徴を押さえておく。翌日、自転車置場から張り込み直すとか可能だからだ。
午前〇時一六分。ニタイは、タクシーから降りて自宅だと思われる一軒家に入る。部屋の灯りは、ニタイが帰宅する前からついていた。家族と一緒に暮らしているということだ。親と同居している可能性もあるため、ニタイが既婚者なのかは、この時点では判断できない。
表口の名前住所を確認して、その日の調査を終了。
見せてもらった調査報告書は、調査内容が写真とともに記載されている。対象者の詳細な行動だけでなく、浮気相手の髪型や服装、カバンのブランド名まで記されていた。立ち寄ったホテル名、コンビニで買った商品、乗車したタクシーのナンバーなど、ここまで記載するのかと驚いてしまうような内容まで報告されている。対象者の行動が編集された動画もDVDで渡すという。
「私は依頼者の代わりに見ているわけですからね。自分が依頼者だったら、詳しく知りたいじゃないですか。どちらから手を繋いだか、どんな会話をしていたか、というメッセンジャーのやり取りをしたいだけとか。安くない料金をいただいているわけですから、こちらも本気で依頼者の期待に応えなければいけないと思っています」
文字にするとかなり熱いセリフであるが、真鍋はいたって冷静だ。初対面ではビジネスライクに仕事をこなしているように感じたが、取材が進むにつれ真鍋の熱い深部を垣間見ることになる。
探偵社への依頼は浮気調査が大半を占めるが、その他に素行調査や行動調査もある。また真鍋の探偵社では、蓄積された経験やノウハウが必要とされる企業調査や採用調査を行っている。
企業調査とは、対象となる企業が不正を行っていないかなどを調べること。依頼者は、取引相手として信頼できるかどうかを心配する。また、本当に支払い能力があるのかといった資産調査なども行う。周辺関係者に聞き込みをすると、データ上には出てこない情報や噂を耳にすることもある。
企業の調査といっても、結局のところ代表者の素行調査になることが多い。
採用調査は、文字どおり、採用しようとする人を調べること。新卒採用の調査の場合、何百人も履歴書が送られてきて、「書かれている住所に本当に住んでいるのか調べてほしい」と依頼されたこともある。採用するための最低限のリスクヘッジなのだろう。
中途採用者の調査では、反社会的勢力と関係していないか、プライベートで問題を抱えていないかなどを調べる。特に役員候補を採用するときは、費用をかけてでも調べる必要がある。後々、会社の信用に大きな傷がつく恐れがあるからだ。
退職者を調査することもある。自社の顧客データなどを持ち出していないかを調べるのだ。医療機器販売の代理店は国内外の医療機器メーカーの商品を営業代行して販売している。代理店にとって、顧客データは社外秘の最重要機密であり、売上の生命線といっても過言ではない。そのため、独立したい退職者が顧客データを持ち出すことがあるのだ。顧客である医師からすると、どこから買おうと大差ないのであろう。そういう場合は、退職者を尾行して、誰と会っているか、どこに営業をしているか、社内に協力者がいないかなどを調べる。
それらとは別に、行方調査がある。家出した子ども、蒸発した夫、急にいなくなった認知症の親……、そういった人を探す依頼である。依頼者から対象者の情報が得られる浮気調査では、どこで張り込みをすればいいか、どこから尾行を始めればいいかが明確であるが、対象者を見失なわない任務を全うできる。一方の行方調査は、所在のわからない人を探すのだから、浮気調査よりも経験とスキルが必要となる。
行方調査の依頼は慎重に判断しなければいけない。「彼女がいなくなったから探してほしい」といわれても、依頼者が相手の住所も知らないとなると、ストーカーの疑いも強くなるからだ。
「依頼のときに話を聞いていると、怪しいかどうかわかりますよ。付き合っているのに住所も知らないなんて、普通に考えておかしいですからね」
恋人に思い込んでいるケースもあれば、気になる女性の素性を知りたいという可能性もある。
もし依頼を受けてしまったら、ストーカーの手助けをする結果になりかねない。そのため、警察に行方不明者届(捜索願)が出されている依頼しか引き受けないことにしているそうだ。
逆に、ストーカー被害に悩まされている人からの調査依頼もあるのだろうか。
「ストーカーの証拠を取ってほしいという依頼もありますよ。家に落書きされたり、自転車にいたずらされたりする証拠を取って捕まえたこともあります。でも、今はストーカー規制法ができて、警察も動いてくれますからね」
ストーカー行為等の規制等に関する法律(通称・ストーカー規制法)は二〇〇〇年に施行され、二〇一二年に改正された。事前に警察に相談していた女性がストーカーに殺害される事件が度々起こり、警察の対応がマスコミから吊るし上げられた。千回以上も嫌がらせメールが送られてきても、警察が動かないことがあった(その当時は、メールはストーカー行為の中に含まれていなかったという事情があった)。今では、ストーカー被害に対して警察はすぐに動いてくれるようだ。ストーカーではなくそうだと相談でも、万が一に備えて、夜間のパトロールを強化したり、相手の男性に声をかけてくれたりする。
探偵が活躍するのは、警察も動けないような行方調査などである。行方不明者届が出されても、すべての案件に警察が動くわけではない。行方不明者のデータベースに登録はされるが、緊急性や事件性がなければ、警察は動かない、いや動けない。警察庁の調べによると、行方不明者届が出されている行方不明者数は二〇一九年末で八万六九三三人。二〇一〇年間は、同じような人数で推移している。毎年八万人以上が行方不明になっているのである。年間八万人もの行方不明者を一人ひとり追うことは現実的だ。担当地域でパトロールしている警察官の職務質問によって、行方不明者届が出されていないか確認するのが精一杯である。
「突然夫が帰ってこなくなった」という行方不明者届が出されても、自殺をほのめかすような遺書や事件に巻き込まれるような状況がなければ、書類を受け取って終わりである。
探偵社に依頼が持ち込まれるのも、そういった案件が多い。真鍋が担当した案件で、蒸発した夫を探していたら、沖縄の離島で別の家族と暮らしていた、というものがあったそうだ。夫の蒸発を知って嬉しい反面、裏切られた妻の怒りも想像に難くない。離婚することになったのだが、互いに新しい人生をスタートできたという意味では、やりがいのあった調査だという。
「遺体を発見したこともありますよ」
サラリとすごいことをいい出した真鍋。昨日の出来事を話すかのように、事件の詳細を語り始めた。
依頼は、両親から「息子を探してほしい」というものだった。当然ながら警察に行方不明者届を提出していた。警察に任せておけないほど緊急性が高かったため、真鍋の探偵社に依頼があったのだ。というのも、息子の部屋から遺書が発見されたのである。
捜索方法は、地道な聞き込みだ。目撃情報を頼りに、対象者を追いかける。警察の捜査ならば、市民も協力的である。しかし、探偵には何も権限がない。そのため、警察官よりも聞き込みのテクニックがあると、真鍋は少しだけ得意そうに説明した。防犯カメラの映像を開示してもらうことも多く、そのためには正直に事の緊急性を訴えるそうだ。もちろん、依頼者にどこまで話していいかの確認を最初に取っておく。不特定多数の人に知られる恐れがあるからだ。また、大々的に公開されてしまうと、本人の目に留まり逃げられてしまう恐れもある。
今回のようは自殺の可能性が高い場合は、そんなこともいっていられない。両親の了解を得たうえで、事務所の探偵を総動員して、人海的な調査に踏み切った。立ち寄った可能性のある場所で情報提供のビラを配りながら、しらみつぶしに聞き込み調査を始めた。
目撃情報として引っかかったのが、河口湖周辺だった。対象者の車が河口湖インターチェンジをでたという情報があり、出口近くのコンビニで買い物をしたこともわかった。河口湖インターチェンジは、富士山・青木ヶ原樹海へのアクセスとして有名だ。自殺する者の心境を考えると、樹海を選ぶ可能性が高い。そこで、樹海の入口周辺を集中的に捜索した。
数時間後、対象者の車を発見したのだが、残念ながら車の中では対象者は亡くなっていた。練炭自殺だった。
「もう少し早く見つかったら助かったのでしょうが、一晩ほど経っていたので手遅れでしたね」
真鍋の口調は冷静そのものだったが、口元が少し引き締まったような気がした。真鍋にとっては、少なからず悔しい事件だったのだろう。
一九七一年に東京都で生まれた真鍋心平は、物心がつく頃から父親と反りが合わなかった。
戦前生まれでサラリーマンの父親、専業主婦の母親、三歳下の弟、そして真鍋の四人家族で、ごく一般的な中流家庭だったという。父親は大手企業に勤めていて、母親は結婚してからは働きに出ていなかった。
生まれたときから会社で暮らし、真鍋の高校生のときに念願の一軒家を購入して引っ越した。裕福ではなかったが、貧しかったわけでもない。ただ、父親は教育熱心だった。地元の国立大学を卒業して、誰もが知っている大手企業に勤めていた親にとって、学歴は最も重要な価値観だったのだろう。学校社会の全盛期という時代背景もあった。
小学生の頃から「勉強しろ」としつこくいわれ、塾に通わされたり、家庭教師をつけられたりした。しかし、真鍋は勉強が嫌いだった。勉強する意味がわからなかった。子どもの頃から父親のようになりたいとは思わなかった。父親はいつも偉そうにしているが、どれほど立派なのか理解できなかった。
中学生になり反抗期を迎えると、一切勉強しなくなった。父親と顔を合わせると喧嘩になり、殴り合いになることもあったという。
父親は、女に仕事をさせる男は碌なもんじゃない、といっていた。今の時代からすると古い人間ではあるが、高度経済成長期を駆け抜けた団塊の世代にとっては普通のことだったのだろう。
真鍋はその地域の不良が集まる高校に入学。毎年一クラス分の退学者が出るような学校だったそうだ。昼休みにはタバコの煙で廊下の先が見えにくくなり、ほとんどの生徒がバイクで通学していた。
高校時代、真鍋はバスケットボール部に所属。真面目に練習していたわけではないが、部活のために学校に行っていたようなものだと懐かしがった。それなりに強かったようだが、みなタバコを吸っていたためか持久力がなく、後半に逆転されることが多かったという。
高校を卒業する数カ月前から、真鍋はガソリンスタンドでアルバイトを始めた。もともと車好きで、一八歳の誕生日を迎えると、早々に普通自動車の免許を取得していた。
それでも遊ぶ金は乏しくアルバイトをしたことはあった。高校三年生のときはバブル最盛期でもあり、夏休みにアルバイトをして五〇万円ほど稼いだこともある。時給一〇〇〇円以上が当たり前で、金を稼ぐことが難しい時代ではなかった。
一九八〇年代後半から一九九一年まで、日本は未曾有の好景気に見舞われた。地価は高騰し、一九八九年には日経平均株価は三万八〇〇〇円を超えを記録していた(一九八五年の日経平均株価は一万円程度だった)。銀行は多額の資金をほぼ無担保で融資してくれたし、株や不動産といった資産はたった数年で何倍にも膨れ上がった。急速な経済成長は、国民の金銭感覚を麻痺させた。使っても使っても、まるで打ち出の小槌のように、金が湧いてくる錯覚があった。
真鍋が高校を卒業した一九八九年は、バブルが崩壊する直前だった。その頃、ガソリンスタンドと掛け持ちで、クラブでアルバ-イトをしたことがある。客の車を駐車場に移動する係で、経営者や芸能人の高級車に触れることもあったのだ。車好きの真鍋にとって、ポルシェやフェラーリ、ランボルギーニといった高級車を運転できる楽しい仕事だった。
しかも、かなり稼げた。正規のアルバイト代は一晩で六〇〇〇円ほどだが、客から多額のチップをもらうこともあり、一晩で二〇万円以上手にすることもあった。「真面目に勉強して大学に行よりも、早く社会に出て金を稼いだ者が勝ちだ」と思っていた。反抗心から父親とは間違っていると証明したかったのかもしれない。
真鍋は、稼いだ金のほとんどを使った。パーツを買ってきては自分で車をいじって、首都高の環状線(都心環状線)を走り回った。俗にいうローリング族だ。車に走り屋、グループで走ることが〝ルーレット族〟とも呼ばれていた。
初心者はカーブの緩やかな外回りを走り、上級者はカーブがきつい内回りを走る。首都高を一周してタイムを競うやつもいれば、最高時速を競っているやつもいた。真鍋は前者で、首都高の七〇〇円を払って朝まで夜通しで走っていた(当時は均一料金だった)。
法定速度を大幅にオーバーするので、当然ながら違法行為である。そのうち、パトカーに目を付けられるようになり、「こらー!真鍋」と呼ばれるようになった。当時は現行犯でしか逮捕できなかったため、逃げ切ってしまえば捕まることはなかったという。逮捕された友人もいれば、大事故を起こして命をなくしたやつもいた。
規制や警察の取り締まりも厳しくなるにつれ、真鍋は首都高から足が遠のくようになる。
そして二二歳のとき、会社を立ち上げた。
真鍋が始めたのは、ポリマー加工や撥水加工で車を磨く仕事。当時の車は、今ほど塗装がよくなったため、車をきれいに磨く仕事に需要があったのだ。また、車の窓にスモークフィルムを貼る仕事も始めたのだが、これが大当たりした。
スモークフィルムを貼る作業は、手先が器用な真鍋にとってはお手のもの。二、三分もあれば一台を仕上げることができた。それなのに工賃は一台で一〇万円ももらうことができた。そのうち、出張サービスを始めた。一台で一〇万円も取っていた。その半額もすれば、客は押し寄せてくる。一時間に三台こなせば、一五万〇〇〇円も取っていた。一日八時間で二〇〇万円の売上になる。一カ月休まず働くと、それだけで月商六〇〇〇万円である。原価はフィルム代くらいなので、売上のほとんどが利益になるのだ。予測を上回るうまくいかなくとも、ヨチヨチではない踏みだ。
当時は、フルスモークといって、運転席や助手席のガラスにもフィルムを貼ることができた(今は後部座席だけだ)。しかし、違法ではあるので、車検には通らない。そのため、車検の度にフィルムを貼りに行く人もいた。
会社は順調に成長していった。自動車整備士を雇い車検も請け負い、中古車販売にも手を広げた。二四歳の頃には、三店舗を経営するまでになっていた。アルバイトをしていたときの月給が、事業が成功したことで、入ってくる金額は大きくなった。二四歳だった真鍋がおかしくておかしくて仕方ない。毎月三〇〇万円から五〇〇万円が入ってくるのだ。四〇歳くらいまでに、仕事をしながらでも毎月一〇〇〇万円以上入ってくるようにしよう、と本気で考えていたくらいだ。
持て余した金は、散財される運命にある。「どうせ、また明日入ってくる」と思うと、貯金などの計画にすらならず、ほとんどが遊興費に消えていった。キャバクラ通いにもハマった。一カ月で八〇〇軒ほどのキャバクラに通ったこともある。
類は友を呼び、同じような境遇の知り合いが集まるようになった。真鍋と同じように自営業を儲かっている者、二代目の金持ち、不動産業者や自動車販売業の者もいた。そうう仲間と毎日のように飲み遊んでいた。ポルシェやBMW、ベンツといった高級車を乗り回し、毎日浪費を繰り返していく。
たまに実家に帰ると、「そんないい車に乗って、大丈夫なのか?」と父親から口うるさくいわれた。当時の真鍋は父親のことを見下していた。「父親の月収を超える金額を稼いでいたのだ。「お前に間違っていて、俺が正しかったんだ!」と勘違いしていたのだろう。そのうち、実家に寄りつかなくなっていく。
ところが崩壊の足音は、そろり、そろりと忍び寄ってくる。
一九九五年には道路運送車両法が一部改正され、すでにユーザー車検(業者に頼まずに自分で車検の続きを行うこと)が可能になっていた。一九九七年には車検制度も自由化された。これまで整備工場の独壇だった市場に、ガソリンスタンドなどが新規参入してきたため、価格破壊が起きたのだ。これまでのよに利ヤを抜けなくなった。
二〇〇〇年になると、稼ぎ頭だったスモークフィルムにも暗雲が立ち込めてきた。プライバシーガラスなるものが登場。自動車の製造過程ですでにガラスに色がつけられるようになったのだ。
仕事量は全盛期の一〇分の一ほどに激減。収入が減っても、浪費する生活スタイルはすぐには変えられず、会社の資金が底をつくまでに時間はかからなかった。真鍋にとって、従業員に給料を支払えないほどつらいことはなかった。事務所の家賃も滞るようになった。それ、従業員には家庭があり、子どもを持つ者もいる。多くの社員の生活がかかっていることを考えると、心臓を鷲づかみにされたかのように息苦しくなった。安い夜が襲ってくると逃げだしたい、逆に目が冴えてしまい、精神的に追い込まれていく。眠れない夜が襲ってくると逃げだしたい心を底から実感した。
そして、倒産。二〇〇三年、三二歳のときだった。
計画倒産に近いものだった。銀行から数千万円ほど融資してもらい、滞納していた支払いを精算した。従業員には給料二カ月分の退職金を払った。失業手当と退職金がなくなるないうちに、次の職を見つけてほしかった。銀行には申し訳ないことをしたが、取引先の人たちや従業員たちに迷惑をかけたくない一心での行動だった。
真鍋自身は法的な手続きを行い、住んでいた借家を引き払い、車もすべて取り上げられ、文字どおり一文無しで実家に戻ることになった。父親は「だからいっただろ」といったものの、精神的に参っている息子の姿を見て、それ以上は何もいわなかった。真鍋は父親といい続けていたことがわかってはいたが、そのことが余計に自分を惨めにさせた。
真鍋からは、すべてのやる気を失われた。自分の部屋に引きこもり、テレビを眺めているだけになった。自分の部屋から出るのはトイレに行くときだけの日もあった。昔の友人からの遊びの誘いも断った。惨めな自分を見せたくないという思いもあったが、遊びたいという欲求がなくなっていたのだ。心の一部がごっそり削ぎ落とされたような空虚感が身体全体を覆っていた。食事をしても味を感じないし、テレビでお笑い番組を見ても何が面白いのかわからなかった。世の中が無味無臭の世界に変わっていたのだ。「ちょっと手伝ってよ」と声をかけてくれたこともある。ただ車を運転するだけ、軽い資材を運ぶだけの簡単な仕事で一万円ほどの日給をくれた。友人の気遣いはありがたかったが、いっときの気晴らしでしかなかった。
勧められて病院に行くと、うつ病と診断された。
一年以上が経った頃、就職しようという気力が少しずつ湧いてきた。時間という薬が、懸命に真鍋を支え続けていたのだ。このままかさみ込んでいても仕方がないという気持ちが芽生えてきたのである。
ところが、ハローワークでめぼしい求人に応募しても、面接どころか書類で落とされてしまう。「会社をつぶしてしまうようなやつ、誰を雇ってくれないよな」と覚悟はしていた。「このまま就職できないのだろうか」という不安も強くなっている。父親の知り合いが経営している福祉関係の会社に面接に行ったこともあったが、体よく断られた。真鍋は人が福祉の仕事をやりたくないのだから、採用されるはずがない。どんな仕事でもいいわけでばなかった。自分の経験が活かせる仕事、やりがいのある仕事、興味の持てる仕事……。窮地から抜け出すためには、そういう仕事が必要だと感じていたのだろう。
ある日、テレビから探偵社のドキュメンタリー番組が流れてきた。夫の依頼で妻の浮気調査をするという番組で、詳しくは覚えていないが、「浮気をしている妻が相手の男と一緒に住んでいて、探偵が妻を連れ戻す男と交渉するという内容だった……」そうだ。
この番組を見たとき、真鍋は「これだ!」とピンときたという。当時は直感でしかなかったが、「自分の経験が活かせる仕事だと感じたのかもしれません」と振り返った。探偵は、人の裏側を覗くのが仕事である。極限状態になったとき人間は本性を現すものだが、探偵をしていると、そういう修羅場に出くわすことが多い。テレビに出てきた探偵は、怒鳴り散らしている浮気相手の男をなだめながら、依頼者の要望を伝えていく。荒れ狂った空気を冷静沈着に処理している。探偵は、百戦錬磨の者に見えた。真鍋は、その姿に何かを感じたのかもしれない。心が折れるほどの経験が役に立つかもしれないのだろうか。
テレビに出ていた探偵社の名前も覚えて、タウンページで電話番号を調べた。
「暮らしていますか?」と電話してみると、「履歴書を持ってきてください」との返答。「どうせ落とされるんだろうな」という気持ちで面接に向かった。そこの社長が真鍋の履歴書を見ながら、「車の運転は得意ですか?」と聞いてきた。普通の人は得意だと思います」と答えると、社長はとても喜んだ。「探偵の仕事には車の運転が必須なのだ。当時いた社員はみな運転が下手で、よくぶつけていたそうだ。「すぐに来てほしい」という社長の言葉に拍子抜けした真鍋は、「逆に、いろいろな事業に失敗しているんですが、大丈夫ですか?」と聞いてしまったくらいだ。
社長は「そういう人のほうがいいんですよ」といって、真鍋を幹部候補として迎えてくれた。経営には、逆境でも諦めずに前に進み続ける胆力が必要となる。つらい経験こそが胆力を鍛えてくれる。社長はそう考えたのかもしれない。少なくとも、人の上に立つべき人間、面倒見のよさといった真鍋の資質を感じていたはずだ。真鍋と話をしていると、そういう天性のものを感じずにはいられない。
創業してまだ二年くらいしか経っておらず、従業員も八人だけの探偵社だったが、社長は「日本一の探偵社になる」という野望を描いていた。そのための幹部候補を探していたのだ。「日本一を目指す」ということが、なぜか真鍋の心にスッと入ってきた。無謀とも思える大きな目標に立ち向かう勇気に励まされた気がした。「もう一度、夢を見てもいいのだと許された気もした。ここで働きたいという意欲が、真鍋の心のから沸々と湧いてきたのである。
三三歳の春、真鍋は探偵になった。
探偵として最初の調査を覚えているか聞いてみた。
「覚えていますよ。先輩と一緒に、車で動き回る対象者を尾行する調査です。やっぱり浮気調査でしたね。ずっと尾行していたんですが、愛人に会うこともなく帰宅しました。完全な空振りです」
それから二〇年近くが経過した。自分で事業は起こしたくないと思うほどのどん底を味わったにもかかわらず、なぜか探偵社を経営している。
最初の探偵社では、二、三年ほど働いた。幹部になり、調査部長まで昇進した。会社も、日本一とまではいわないまでも、業界で知らない者がいないほどまでに成長した。会社に勤めて、月給をもらえることの有り難さを日々噛みしめていた。
ところが、会社の状況が一変する事態が起きた。会社が大きくなったことで新たなスポンサーがつき、経営方針を巡って社長と対立するようになったのだ。社内は親社長とした雰囲気になり、調査と真摯に向き合える状態ではなくなった。真鍋は社長に恩義を感じていたが、その探偵から身を引く決意をする。
フリーの探偵となった真鍋は、横の繋がりが豊富だったこともあり、他の探偵仲間とともに調査を請け負い始めた。そのうち、仕事ができる仲間と探偵社を立ち上げることになる。親分肌の真鍋が社長になったのは自然の成り行きだった。
真鍋は現在、自ら調査を行っていない。依頼を受けると部下の探偵に割り振る。場合によっては、他の探偵社に協力を仰ぐこともある。真鍋の仕事は、依頼者と話をして見積もりを出すこと、そして調査結果を依頼者に報告すること。真鍋は依頼者とのやり取りを一手に引き受けている。
真鍋は探偵ではあるが、依頼者の相談役であり、カウンセラーでもある。依頼者の話を聞き、悩みや不安まで踏み込んでいく。依頼者に最適な解決策を探し、調査後のアフターケアまでです。この役務を全うするには、長年の経験が必要だという。チームを組んで調査計画を立てる技術や経験だけでなく、依頼者の本音や要求を読み解くコミュニケーション能力も必要だろう。
現場の探偵は、依頼者と接することはない。真鍋が指示を出すための書類しか、依頼者のことを知ることがない。探偵が依頼者の話を聞いてしまうと、先入観で調査の邪魔になる。「きっと浮気しているに違いない」「相手が悪いはずだ」といった先入観は、調査の邪魔になる。思いどおりの結果になるように、情報が曲げられるかもしれないし、予期せぬ出来事に直面したとき、判断を鈍らせることもある。
依頼者との適切な距離を保つ能力は、長年の経験がものをいうのかもしれないが、経験だけでは補えない人間性にも大きく左右されるのだろう。
依頼方法は、インターネットが登場するまでは電話が主流だった。そのため、当時はタウンページなどの広告に費用をかけていた。タウンページは各地域別だったため、いくつもの広告枠を買わなければならない。紙面の四分の一のモノクロ広告でも、東京の各地域をカバーすると、年間で数千万円の広告掲載費になる。それでも、各探偵社は広告枠を取り合っていた。電話帳の広告は、それほど重要なものだったのである。業種別の電話番号は五十音順だったため、最初に掲載してもらうために「あ」から始まる探偵社が多かった。
現在の依頼は、ほとんどがネットからである。自分が調査を依頼する立場であっても、ネットで検索するだろう。何事もネットで情報を得る時代である。料金はいくらか、どういう調査をしてくれるのかといった業務内容から、怪しい会社ではないかといった口コミ情報まで、手っ取り早く得ようとする。試しに「探偵 浮気調査」で検索してみると、多くの探偵社がヒットした。具体的な行動をアップしている探偵社もあれば、詳細な調査報告書を紹介しているところもあった。
調査依頼は、弁護士からの紹介もあるという。離婚の相談を受けた弁護士から「証拠があったほうがいい」といわれ、真鍋のところに回ってくるのだ。離婚をするためには、夫婦それぞれの了承が必要である。ただし、相手が不貞行為をしていたら別だ。相手が別れたくないといって張っても、こちらから一方的に離婚することができる。離婚による財産分与を優位に進めるためにも、浮気相手に慰謝料を請求するためにも、確固たる証拠が必要になってくる。
それでも、最初から離婚を視野に入れて依頼してくる人は二割程度だという。ほとんどが夫婦関係を修復したいと考えているようだが、中にはただ事実を知りたいという人もいる。
どのくらいの調査費用が必要なのか聞いてみると、依頼内容によって料金が変わるほか違うので、一概には答えられない、という。
「一日だけの調査なのか、一週間かけるのか、それとも証拠が取れるまで徹底的に調査するのかによっても違います。一日の調査でも、開始時間か朝か夕方かでも違うし、翌朝までかかれば高くなります。尾行を開始する場所や移動手段などによって、人員も二人でいいのか、五人くらい必要かが決まります。なので、簡単にいくらというのはお答えできません。どういう状況なのか、どうしたいのかをヒアリングしながら、具体的な金額を見積もります。ただ、どうしたいのかわからないという依頼者も多いですね」
突然、夫から離婚したいといわれて、調査を依頼してくる人もいるという。
「旦那が離婚したい理由を聞いたら、性格の不一致だといわれたそうですが、絶対に納得できない。性格不一致は仮装した浮気です。状況にもよりますが、普通に生活しているのに急に離婚したいとか言いだすというのは、異常じゃないですか。旦那のいうことを真に受けているのかもしれませんが、そういう人はそもそも依頼してきませんからね。依頼してくるのは、女の影がちらついているからです」
夫の女性問題が原因だと疑いつつも確信を持てない。確信できても、自分がどうしたいのかもわからない。そういう依頼者に対して、真鍋はきっぱりといい切る。子どもがいなくて浮気相手の女性と一緒になりたいのであれば、相手のことがどれほど好きであっても「離婚したほういい」と伝え、経済的に離婚が難しい夫の浮気相手が発したものであれば、いっときの感情に流されず「ヨリを戻したほうがいい」ときには、依頼者に寄り添いになることもあるそうだ。目の前にいるクールな真鍋の胸に、熱いものが内包されていることに驚いた。
結局のところ、関係を修復するのか離婚するのかの選択ではあるが、簡単に白黒つけられない問題でもない。やり直すにしても、互いの関係にヒビが入ったままだと長続きしないだろう。だからこそ、関係の修復を望むのであれば、浮気した夫に優しくしてください」と、真鍋は口を酸っぱく説く。
「浮気した夫が悪いと、相手を責め立てる人もいますが、原因の一端は依頼者にもあると思っています。だからはっきりといます。あなたにも原因があって、浮気になっている可能性も高いですよ、と。もともと夫婦関係がギクシャクしていて、女に走った場合もありますからね。なんでそこまでいわれなきゃいけないので怒られることもありますが、こちらも真剣ですから。嫌なこともいわなければなりませんからね。奥さんから一方的に責められたまま、平穏な結婚生活なんて送れないですから。やり直したいならば旦那さんには優しくしないと」
自分に非があったとしても、妻に責められながら生活するのは苦痛でしかないだろう。
「ときには、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいと決めてあげることもあります。最終的にどうするか決めるのは依頼者本人ではありますが、客観的な意見をいってほしい人もいますから」
夫のことが好きで好きでたまらないという女性の依頼者がいた。しかし、夫の浮気癖が直らない。
以前にも浮気が発覚したことがあったが、再び疑惑が浮上してきたのだ。夫に問い詰めても、「俺を信じられないのか?」と逆にいい返された。強く追求して嫌われたくないが、夫が他の女性と一緒にいるところを想像するだけで、気が狂いそうになる。浮気の証拠を取って、相手の女性に別れてほしいと迫りたいという。
「話を聞く限り、奥さんのところに戻ってきたとしても、絶対に浮気癖は直らないでしょう。そうすると、別れたら浮気相手を求めるかもしれません。認められないのであれば、別れるしかないですよね。世の中に愛情が深いとか気がない男性もいるんですよ。どれだけ好きでも、別れたほうがいい。誰に相談しても同じアドバイスになると思いますよ」
依頼者は夫が自分のところに戻ってくることを熱望していた。離婚など微塵も考えていなかった。だが、真鍋は離婚を前提とした調査を提案した。依頼者がまだ若く、子どもがいなかったことも大きい。最初は言い合いになり、そのうち依頼者は涙ぐんだ。依頼者にとって、夫と別れるのは、浮気されるよりも苦痛なのだろう。自分でも愚かだと理解していても、どうしようもないこともある。
離婚するかどうかは保留して、夫の浮気調査を開始した。浮気の詳細が明らかになるにつれ、依頼者の気持ちも少しずつ冷めていった。なんと、浮気相手が二〇人もいたのである。
夫のことをまだ好きだといっていたが、離婚を決意した。二人で購入した都心の高級マンションは、依頼者のものになった。
真鍋は、依頼者から泣いて感謝されたこともあるそうだ。法外な謝礼を渡されそうになったこともあるそうだが、最終的に人生の相談にまで発展してしまう。最初は怖そうに見えた真鍋の顔も、話を聞いているうちに、どんな相談にも乗ってくれる頼れる兄貴のような笑顔に見えてきた。頼りがいと安心感、そして温かさが同居しているのだ。
ただ調査後は、依頼者と距離を置いているという。
「一番期待しているときに相談を受けるので、何度も電話がかかってきたり、手紙が送られてきたりします。親密にならないようにしています。助けてもらった人と関係を持ちたい気持ちはわかりますが、キリがないですからね。こちらに依存されても困りますし、依頼者には新しい生活があります。ある程度のところで関係を断ち切ってあげないと、前に進めないじゃないですか。本当に大事なのは依頼者の今後の人生ですから」
冒頭の木曜日に限定で浮気をしていた案件は、最終的にどうなったのだろうか。
「この依頼者は非常に冷静な方でした。浮気相手の女性に連絡して、二度と会わないという誓約書を取ったようです。その一日後には慰謝料二〇〇万円が振り込まれたそうです」
別の調査で、浮気相手の女性(第二対象者・ニタイ)が既婚者であることが判明した。朝早くから自宅前で張り込み、自宅から出てきた夫らしき人物も尾行。夫が大手企業に勤めていることもわかった。
「何かあったら弁護士を紹介しますと伝えていたのですが、ご自身で解決されたようです」
二〇〇七年、探偵業法が施行された。警視庁のホームページによると、「探偵業は、依頼者に気づいて必要な規制を定めることにより、その業務の適正を図り、もって個人の権利利益の保護に資することを目的としています」と書かれてある。要するに、人に迷惑をかけないように、そして適正に探偵業を行うための法律である。探偵を生業にするためには、探偵業届出書を公安委員会に提出しなければいけない。真鍋の事務所の壁にも掛けられていた探偵業届出証明書がないと、探偵業は行えないのだ。
法律ができた背景には、悪徳探偵社の存在もある。適当な調査をして報告するだけでなく、戸籍謄本を入手したり、銀行の預金残高を調べたり、部屋の合鍵を作成したりと、違法行為を行うところも多かったのだ。強引に契約を結ぶこともあれば、多額の費用を請求し、払えないと借金を強要するような反社会的勢力と関係があるところもあった。今でも悪徳探偵社は皆無とはいえないが、減少したのは間違いない。違反した探偵社は営業停止という処分を課されるので、探偵業届出証明書は少なくとも正当な探偵社を見分ける基準にはなるだろう。
規制ができるまでは、依頼者が夫の浮気相手と交渉する際、真鍋も立ち会っていた。依頼者の代理人になることは、正確には弁護士法に違反するので、探偵業ができるまでは処分が曖昧だったのだ。過去に何度も立ち会ってきた真鍋は、修羅場を避けるすべを心得ている。
その一つが、調査報告書を交渉相手に見せないこと。それは、第一対象者(イチタイ)に対しても同じだ。写真や動画を突きつけてしまうと、そうなるが、提示しないことが重要なのである。
「証拠を取られた方の不安は、いつから見られていたのだろうか、ということなんですよ。わざわざそこを明かす必要はありません。証拠を見せてしまうと、「この日だけなんです」と、開き直って知らないふりとホテルに行ったんだ」といった逃げ道を作ってしまいます。不倫というのは継続した関係ですから、一夜だけの過ちだと不貞行為にはならないのです。ですから、すべてを知っている態度で接しなければいけません」
そういった調査後のアドバイスも抜かりない。調査報告書は「最後は切り札、ある意味〝御守り〟みたいなものである。
探偵という響きは魅力的だが、これほど大変な職業もない。真鍋にとって、探偵という職業はやりがいそのものだろうか。
「業務は大変ですからね。朝早くから夜遅くまで時間も不規則ですし、一週間帰宅できないこともザラです。忍耐力がないと務まりません。恋人もできにくいし、結婚生活にも向いていない職業です。ただ、他の職業では味わえないような体験ができます。同じ調査は二度とないので毎回新鮮ですし、常に緊張感と緊張感があるので、その辺にやりがいを感じている人も多いです」
荒ぶっていた二〇代、天狗になっていた三〇代、探偵として人の欲望を見続けてきた三〇代から四〇代を経て、五〇代に差しかかった現在の真鍋は、人の役に立ちたいという境地にいるようだ。
「探偵というのも社会に必要な仕事だと思うのです。だからこそ、法律で認められているんじゃないでしょうか。もし必要でなければ、規制されて徹底的に潰されるはずですから」
客観的なことしか口にしない真鍋だが、彼が発する言葉の奥には、「探偵は人を救う職業だ」という信念が隠されていた。一人ひとりの依頼者と真摯に向き合い、彼らが立ち直るきっかけを模索する。複雑に絡み合った糸を丁寧にほぐすように、依頼者にとって最良の未来への道を見つけ出す。
あれほど反発していた親とも、最近では関係が縮まってきているようだ。仲がいいとはいえないが、喧嘩をすることはなくなったという。真鍋は、少し照れた様子で「今では親に感謝していますよ」と小さな声でつぶやいた。
江戸川乱歩の小説に登場する名探偵・明智小五郎は、独特の視点と天才的な頭脳で、複雑怪奇な事件を飄々と解決する。シャーロック・ホームズは、現場に足繁く通いながら、並外れた洞察力と推理力をもって常識では計れない事件を解決する。
今ここに存在する真鍋心平は、温かく広い懐と厳しくも愛のある言葉、そして仕事に対するプライドで、迷える人たちの問題を解決する。
三人も名探偵である。
世の中に名探偵がいる限り、社会の闇に光が差し込むはずだ。
最後に、真鍋に聞いてみた。
「なぜ、そこまで依頼者に寄り添えるんですか?」
「困りきった人を助けるのは、人として普通のことじゃないですか?」
「普通のこと」と普通にできること、それが名探偵の条件なのである。